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コミューンとアソシエーションの関係について

年末にたまたま読んだ本で、笠井潔がこんなことを言っていた。「激動期に自然発生的に誕生する"コミューン"と、平時から活動している"アソシエーション"はどういう関係なのか、どう結合しうるのか、というのが回避できない難問なんですね。(中略)コミューン的なものには高揚と衰退があるし、高揚したまま10年も20年も続くわけではない。コミューンはアソシエーション的なものに引き継がれ、それを母体としてまた大衆蜂起的なコミューン運動が生起する、ということになるだろう。これまでも実際そうだったように。...」

これを「回避できない難問」だと認識し発言する人がここにいた!!!と思っていたら、なんと週刊文春で池上彰が柄谷行人にインタビューしていて、池上「交換様式Aに、Dに発展する萌芽があるとご覧になっていますか。」に対して、柄谷「そう言うと必ず、Dに発展させようとして、『じゃあ国家の力で』となっちゃうわけです。だから、むしろ発展しないほうがいい。」と答えていた。柄谷は「できるのはAの運動を広げていくことですが、無理に広げてはいけません。」とも言っている。

ローカルで自立したAの運動を無理せず地道に継続するうちに、ある日「コミューン的なものの高揚」(Dの萌芽)がやってくる。が、やがてそれは衰退し、ローカルなAの日常に戻る。。その反復の末に、Aの次元が少しずつ高くなって「Aの高次元での回復」であるDに漸近していく(=持続可能なDたるアソシエーションの姿が徐々に見えてくる)というイメージであろうか。。

なんか最近この手のイメージがある程度描けないと、力が出せない感じがあり、年末年始はこんなことを考えていました。


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