かえみとに想う関係性の罠
先週あたりだったか、このnoteをたまたま見つけて読んでしまった。
端的に言えば、ひどく悲しかった。残念な気持ちになった。
この方は僕の知らない方だったが、想像するに、今まで追っていた推しへの気持ちを整理したかったのかもしれない。だからところどころ強い言葉を使っているし、だからといって誰かが「もうかえみとを推せなくなった」ことを、赤の他人が責められる訳もない。
……と自分に言い聞かせはしていたのだけども、どうもこの一週間、この文章が喉に突き刺さった魚の小骨のような、何かしらの違和感をもって僕の心をずっとチクチク虐めていて、どうしても忘れることができなかった。
何かこう、どうしても見過ごせない何かがあるような気がずっとしていたのだ。
という辺りで今日、これもたまたまだが、とある別の方の創作小説を読んでいた。かえみとを題材にした、創作百合小説だ。
ひとくちに言って、とても良かった。良かったのだけど、ふと頭をよぎったちょっとした違和感が、さっきのnoteを読んだときの違和感と符合していた。
あ、これだったのか、と勝手に納得したので、その話を今から書こうと思う。
小説を読んで思ったこと、それは「ここに出てくる人達は本当の月ノ美兎でも樋口楓でもない」ということだった。当たり前だけど。
小説としてはよくできていたし、登場する「月ノ美兎」も「樋口楓」も、実際の委員長やでろーんの特徴をよく掴んでいた。キャラとして違和感があったとかそういう話ではない。
そうではないのだが、やはり「創作に綴られている2人は、現実に今紡がれている2人とは違う」のだ。
よく「公式が最大手」なんて言い方がなされるのだけれど、創作と「公式」との間に良いも悪いも上も下もなく、実際はただ「違う」のだと思う。明らかに別種の何かだ。
さきほどのnoteで語られていた話は一面の真理ではある。かえみとの2人は、にじさんじライバー一期生として出会い、ライバー活動を通じて互いを知り、仲良くなり、様々な障害に2人で立ち向かい、そのうち「相棒」と呼び合うようになって、ライバーとしても大成したし、2人の仲は他人が入り込む余地がないほど強固になった。
とてもドラマチックな物語だ。
とはいえ、だ。
ハッピーエンドだろう。
いや、勝手に終わらせないでくれる?
それはこの筆者の中での「かえみと」がエンディングを迎えただけで、実際の2人の物語はリアルタイムに進行中なのだ。
現在とても仲が良さそうにみえる2人の関係も、明日突然大喧嘩して疎遠になるかもしれないし、でも数年経ってふと再会して、紆余曲折を経て今以上に親密な仲になるかもしれない。あるいは全く違う関係を築くかもしれない。
それがドラマチックになるかどうかは全くわからないが。
一度仲が良くなったら時が止まったかのように未来永劫同じ関係が続く、のは創作の中だけの話だ。実際はどんな関係でも、たとえ仲がいいままでも、年を経るごとに何かしらの変化が訪れる。かえみとの2人もその例に漏れない。
ファンディスクで提供されるようなアフターエンディングなんて、提供されるとすれば、2人が死んだ後だ。
これはかえみとに限らず、にじさんじ内に存在する関係全てに言えることかもしれない。リアルの人生が裏にあることを忘れて、まるで創作物のように物語を消費しようとする「関係性オタク」がにじさんじリスナーにはとても多いように思う。
ライバー自身がそういう楽しみ方を意識的に提供している側面もあり、それを否定するつもりは更々ないのだけど、ただ、まるで百合アニメを消費するようにライバーの人間関係を消費するのは、やっぱり違うんじゃないか、と思ってしまう。
そういう楽しみ方もできるのだけど、本来はもっと別のところに楽しさを見出すべきではないのだろうか。そうでないと、推しにとっても自身にとっても不幸な道が待ち受ける気がしてならない。
樋口楓の魅力の1つは、彼女の人生そのものだと思う。そして月ノ美兎も、間違いなく彼女の魅力の1つは、彼女の生き方そのものだ。
僕は、2人がライバー活動を終えるまで、ずっと追っていたいと思う。それは創作のようなドラマを2人に求めたいのではない。僕はただ、2人の生き様を、ずっと心に焼き付けていきたいのだ。
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