#1 不可測

※本作は「洋灰の都うずめし神椿」に収録されています


 もう、信じられない!

 高校の廊下を、三つ編みの少女が眼鏡をぐらぐらさせながら進んでいた。放課後、学生が思い思いの相手と帰る中、彼女、岩結いわい詩映しえは一人だ。

 歩みは乱暴で、明らかに憤っている。
「三葉虫だとか、魔法瓶だとか」
 ……訳が分からない。
 要するに自分を馬鹿にしているんだろう。でなければ、何かの不快な勧誘だ。どっちにしろ、軽く見やがって!
 詩映は鞄を投げつけたくなって、八つ当たりをやめた。

 この高校に入学した、当時の話。入学したてというのは非常に大事な時期で、ここで友達に囲まれて過ごせるか、三年間ぼっちで終わるか決まると言ってもいい。そんな時、詩映は重めの風邪を引いた。本当に最悪のタイミングで。それから、やっと健康を取り戻して登校を果たしたとき、教室は既に幾つかのグループに分かれており、自身の割り込む隙など、どこにも無くなっていた。元々それほど社交的でもない彼女にとっては、カード一枚入らない城壁のブロックのように人間関係が組み上げられて見えたのだ。

 幸い、いじめのような虐げは無い。代わりに、彼女はクラスの中の見えない、空気に限りなく近づいてしまった。

 授業中に、空気らしく窓の外の青空を見つめてみる。山の峰に代わって、この常盤木市は〝花輪リース〟というものが市街を囲んでいる。大気の青で元々の鋼鉄が染まって見えるが、それほどに巨大なものだ。色々な事情で工事が別々となり、それらは俯瞰しても綺麗な円にはなっていない。心配性の大人達が作った、お節介の象徴。そんな風に詩映は〝花輪リース〟を見ている。眼下には白いラインが引かれたグラウンドだ。

 学校に、登校という様式は現代でも残っている。リアルで顔を突き合わせることに意義を見出している昔の政治家が決めたルールに従って、今も学校の仕組みは古いままだ。

 詩映は髪に取り付けた、貝殻のようなコーティングで光る正三角形のD.O.Eドーイ(device of embody、脳電位アクセスデバイス)に意識の片割れを込める。手乗りのスマホやバイザー型も今は昔。知覚に割り込みをかけて像を送り込むこのD.O.Eは嗅覚も、触覚も再現する。緊急事態にあっては精神状態を制御することすらこのデバイスは許されており、災害時の集団心理が起こす二次災害は過去のものというわけだけれど、避難訓練はやっぱり定期的に行っている。

 そんなデバイスを操り、詩映はほんの少しの間、視覚のクラス内共有を切って、教壇に立つ先生の頭の周りに骨組みだけの球、立方体、四角錐を作り出す。それを、くるくると自転させてみた。物理演算エンジンが無くとも、詩映の想像力だけでこれぐらいのプリミティブな物体は具象化できる。詩映はクラスでも後ろの方に座っているため、黒板に向かう他の生徒が髪に着ける、様々な色や形のD.O.Eを見ることができた。その上を他者には視えない立体図形がふよふよと飛ぶ。一人一個D.O.E時代ってね。
 ここまで普及しているのは常盤木市内だけではあるけれど、先進都市の象徴という感じがして、これを使った日々は嫌いではない。

 あまりやると視覚共有を切るな、と怒られるので。
 その物体を教員の頭にぶつけて砕き、設定を周りの生徒と同様に戻した。椅子に座り直して、姿勢だけ正す。

 授業は相変わらず続いている。こんな退屈しのぎをするが、詩映の成績は中の上といったところだ。でもそれは、学校や親への従順さを示すパラメータに思えて、気に入らなかった。もっと目を見張るような成績が取れたら、それは掴み取る自由の象徴になるだろう。だけど、自分はそこまで行けない。

 こうして学校から製品化されて、出荷されて、どこにでもいる一人となってゆくのか……と、アンニュイな思いにかられていると、同じく席の後ろに座っている少女が教員に指された。
 クラス内で共有された視覚に写っている教科書を持って、彼女は立ち上がる。

 D.O.Eを通じてネットワーク上の知識から、経験や勘といった非言語的な知識さえ引き出せる現代の教育は、詰め込み型の過去とは違い、脳と肉体を鍛えることに特化している。思考テスト……進歩するビデオゲームと結びついた脳教育や、意外にも体育が重要視されているのだ。どんな知を流し込まれても対応できる脳と身体を育むために、教育機関は存在している。文章を口にするという、こうした場では退屈な行為も、身体の操作という点では重要である。彼女は取り立てて上手くも下手でもない調子で、その一節を読み上げた。

 心がこもってないな、森崎花譜。
 背筋を伸ばして授業を受けているけれど、存在感がまったく薄い。
 森崎さんが誰かと一緒に居るの、見たことがないよ。困った顔や、笑った顔すら知らない。
 ずっとあのまま。でも、この街に溢れる自律支援機械みたいだからって目を付けられたこともない。
 ネオウルフの髪、平均やや低めの背に、小さな口を動かして朗読する森崎さん。
 ぼっちなのに、平気で居られるんだろうか。そうだ、自分と同等か、それ以上のぼっちが居たじゃないか。
 詩映は平滑化していた興味のざわつきを感じた。
 放課後に、話しかけてみよう。

 そうして訪れた、傾く夕日の時間。
 詩映は、紺色の学生鞄に物を詰める花譜に、声をかけた。
「森崎さんッ」
 思っているよりも喉の動きが遅れている。学校教育も空しく、半日ほとんど自由に喋るチャンスが無い詩映が、奥から絞り出した声は、情けなく上ずっていた。

「?」
 手が止まる。首を傾げる森崎さんの、編み込んだ茶色のお下げ髪が揺れた。
 そういえば、この子も髪を編んでるなあ。一緒か。
 じゃない、何か聞いてみなくちゃ。
「あの、森崎さんのD.O.E、可愛いね。お魚の正面顔みたいで、ギザギザの口で」

 髪を束ねるヘアゴムに取り付いた、丸いバッジのようなD.O.Eを指して、詩映は言った。紫色の地に、赤い目をして、ギザギザした口が書かれている。なかなかポップで個性的だ。森崎さんは言った。
「これは、らぷらす。D.O.Eのようなもの、かな」
「うん……ん?」
 なんだか妙に歯切れが悪いぞ。
 ただのアクセサリなのだろうか。

「森崎さんは〝神椿市〟だと、どんな姿をしているの?」
「うん。それは」
 森崎花譜が指を鳴らすと、その茶色の髪が花片みたいなピンクに染まる。目も黒目が青で、瞳孔が太陽のような色に変わった。普段が地味な本人にしては、個性的なファッションだ。

 D.O.Eで飾られる拡張された現実は、個人の容姿といったレベルから建築物まで、ほぼ全ての物理的実体のコピーが〝神椿市〟という仮想世界に繋がっている。〝神椿市〟はこの常盤木市に重ねられる、鏡写しのデジタルツインだ。つまり、授業中に詩映が具象化した単純な形の骨組み立体も、生徒が読んでいた仮想の教科書も、みな〝神椿市〟の側の物体ということである。視覚を弄れば、髪や目の修飾も可能というわけだ。

「ときどきしか変えないんだけど。岩結さんはどう?」
「あ、え。私か……そうだなあ」
 詩映は頭とお尻をさっと撫でる。
 ぽんっ、とキツネの耳に尻尾が生えた。
 気恥ずかしそうに手を下に組んで、返事を待つ。

「……かわいい」
 口元に手をやって、森崎さんが笑う。
 ちょっと顔を赤くして、詩映も笑った。

 学校の授業時間では顔を突き合わせて生活する決まりがあるので、身体に何か電子的な装飾を施すことはできない。本当なら、着衣も昔のプロジェクションマッピングみたいに、D.O.Eに合わせて模様が変わる服とか、そういう物がちゃんとあるんだけれども、学校という装置は古い物理的な制服を採用したままだ。ここにD.O.Eの手が入る余地は無い。となると、自然に髪とか目とか、元々無い耳とか尻尾とか、放課後の学生はそういう方向になりがちなのである。

「花譜でいいよ。みんな、そう呼ぶよ」
 下の名前で呼ぶの?
 なんだか、気恥ずかしい。
 でも、あっちが花譜なら、こっちも詩映だろう。
「じゃあ、私も詩映でいい。岩結詩映」
「しえ……詩映ちゃん、だね」
 花みたいに微笑み、軽く頷いた。
 嬉しくなるな。
 詩映がもっと心を開こうと、距離を縮めたとき。
 鞄のファスナーを閉じ、花譜は意外な質問をしてきた。

「詩映ちゃん――私は、どう見えるかな」
 意識して見れば、花譜の個性をそぎ落としたような顔立ちは整っていて。ネオウルフの、今はピンクの髪が触れてみたくなるくらい柔らかそうで、綺麗で。異質で。
 そして、流暢に喋りだした。まるで歌うみたいに。

「来歴が繋がって、私はある日、三葉虫の末裔になるかもしれない。もしかしたら、魔法瓶になっちゃうかも。そういう宇宙人な私でも、詩映ちゃんは、今みたいに、普通に声をかけてくれる?」
「花譜ちゃん、意味が分からない……」

 詩映は、一歩退いた。
 キツネの尻尾を腰に巻き、耳を寝かせて当惑する。これらの装飾は感情に連動するのだった。

「分かってほしいの。私がたとえ深海魚でも、私を私だって認めてほしい。詩映ちゃんは、そっち側の人間でいてくれるのかな。だから、私に気付いて、話しかけてくれるの?」

 異様な雰囲気が胸を詰まらせた。哲学的問いだろうか。帰ろうとしている周りの同級生のことを憚らず、そういう質問をする森崎さんは何を考えているんだろう。この会話自体、プライベートにして、周りには聞こえないようにした方が良かったかもしれない。

「分かんない……意味分かんないよ。いきなり何?」
 おかしな会話の仲間にされて、笑われたらどうしよう。詩映は周りに目を巡らせた。窓の向こうに、ビル群を越えて夕映えに輝く〝花輪リース〟が見える。詩映が生まれるよりずっと前、九州の大きな事件がきっかけで作られた、いい加減で堅牢な造りの〝花輪リース〟は、人によっては手向けの花だという。あれは輝くばかりで何も応えない。

「花譜ちゃん、そういう人なんだ……」
「私はそうだよ」
 変な団体のメンバーなのかもしれない。これは何かの勧誘かもしれない。ああいう奴等は学生から狙うんだって。
 話すんじゃなかった。

「さ、さよならっ」
 詩映は自分の鞄をひっつかんで肩にかけ、よろめきながら廊下に飛び出した。歩んでゆくうちに、仮想の尻尾が逆立って、怒りがこみ上げてきた。
 こんなに勇気を振り絞って話しかけてあげたのに。
 一生懸命になった自分は、馬鹿だ。馬鹿にされたのだ。
 お前なんか、ずっと独りでいろ。
 ぼっちになる奴は、こうして成るべくして成るんだ。
 自分自身を棚に上げて、詩映は憤っていた。


 怒りと失望を余らせながら、学校の車輪スペースに停めておいた電動一輪ロウラーのロックを外し、サドルを掴んで引き出す。身体を乗せると、空間に平面のメニューが浮かんだ。指差しで明確に「起動」を選び、身体を前に傾ける。水素エンジンが息を吹き返し、バランスを制御しながら前へ滑り出して、加速が始まった。

 そのまま校舎を出て、三つの道路の内、一番こちら側の歩道をまたぎ、歩行者とパーソナルモビリティの混合道を曲がって真っ直ぐに進んでゆく。
 あらかじめ計画された常盤木市の道路は広い。歩道と、混合道と、高速道、それに地下の物流道路までもがある。

 結局、マイナスの感情もそう覚えてはいられなかった。
 詩映の乗る電動一輪ロウラー「アロイール」は既に新型が出ていて、15キロ以下の低速とはいえど、それでも風の横切る感覚が彼女を慰めたからだ。

 陸橋をくぐる、この後の景色が好きだった。
「モリタキ食品」「インディゴ・ジャパン」に、「TOKIEDA」……。常盤木市の、錚々たる巨大企業のロゴが書かれた両脇の高層ビル群が、沈みかけの太陽を反射してオレンジ色に照り返す。それら、そびえる門柱の間を、詩映はすいすいと進んでいった。

 ビルから空中に張り出した広告枠が、市政アドバイザーAIのニュースを伝える。お年寄りの支持が篤い歴史的実業家の再現AI、〝国望善治郎翁〟が、今年も市の経済を担うのだという。完成度の高まった三基のAIは既に代替わりをする気配がない。複雑で多岐に渡る行政は、亜世代量子通信網の全国敷設以後に作られた、汎用AI達の領域だ。もちろん最後は人間が決定するが、立案はもう人間だけで決めることが最善ではない。

 そんな、第二首都らしい常盤木市の壮大な光景を、さらに彩る群れがあった。一瞬、詩映はそれを空中に浮かぶドローン配送だと思った。蝶が何匹も飛んでいるのだ。
 オパールの美しい羽を開き、閉じ、それらは利用別に区切られた道路を横切ってゆく。

 何度か瞬きをして、詩映は物体識別をONにした。D.O.Eを切ることもできるが、それは周囲の野良な情報収集装置から顔、光彩、声紋といったあらゆる容姿の認識を許すことになり、セキュリティ的な丸裸を晒すことになる。公然の場で行うべきことではない。代わりに、その物体がリアルの実在か、仮想空間〝神椿市〟のものか、見分ける機能がある。解析結果は瞬時に出た。蝶の群れは〝神椿市〟の側のものだ。つまり、現実でない。

 なにかの広告だろうか?
 であるならば、群れに追従して識別可能なアドレスが書かれていて、それをD.O.Eが視覚から読み込んでくれてもいいはずだ。蝶達からは、主張が見当たらない。

 詩映は不思議に思った。森崎花譜の時のように、どうしても見逃せない疑問がぐらぐらと煮立つのを感じた。
 電動一輪ロウラーを、蝶の群れの方へと傾ける。
 無意識に、仮想の尻尾でバランスを取りながら。
 少しの寄り道だ。


 複雑な輝きを残しながら、群れは一個の廃工場の窓へと吸い込まれていった。詩映は電動一輪ロウラーを横付けし、指差しで「停止」を選び、ほとんど音の出ないエンジンを止める。

 開いたままになっている廃工場の入口を、背を低くして伺った。……誰も居ないようだ。
 オレンジの陽が当たる、雑草の伸びた地面を踏みしめながら、影のかかる入口へと一歩ずつ、歩いた。まだ取り壊されていない建物は珍しい。おそらく権利的な、書類の上での問題がクリアされていないのだろう。殆どの場合、大小さまざまな建設用の自律支援機械メカニタントがやってきて、一夜のうちに建物を更地にしてしまうからだ。

 中は暗い。基本的に肉眼からの情報を解析するD.O.Eでは、暗くて視認できないものはやはり読み取ることが難しい。中の上の優等生である詩映は、常盤木市の学生の緊急避難教育通り、あらゆる箇所に置かれた地下待避壕への逃げ方の理解と、ライトの携帯をしていた。

 暗闇の中に、パッと丸い灯りが広がる。工場は、置かれていたはずの製造機械が出払って、がらりとしていた。二階への階段は、すぐ脇にあった。蝶の群れは、上の方の窓から入っていったはずだ。

 詩映はライトを左右に振り向けながら、カン、カン、と簡素な鉄の階段を昇る。帰り際にこんな冒険をするなんて。おはようからおやすみまで制御・管理された暮らしからの逸脱に、彼女はわくわくしていた。お腹がキュッとなる緊張感は、嫌いではない。

 ……幻の蝶は、そこに群がっていた。
 反射するリフレクター、キーホルダー、交通信号の光る面……が床に転がっている。すかさず物体解析が入り、それが仮想空間上のものだという結果を送ってきた。

 詩映は息を飲んだ。
 現実から〝神椿市〟のオブジェクトだけを切り抜いて、ここに持ち運んできたらしい。現実には一切影響を与えずに。自律したアバターでもなく、そんなことをすれば、現実と仮想が一対一という、デジタルツインの前提が崩れてしまう。可能なのだろうか。
 だが、目の前の状況はそれだ。
 間接的な街の破壊にあたる行いだ。
 何故そんなことを?

 蝶達は、それら仮想オブジェクトを削り取り、自らの羽に取り込んでゆく。そして、ふわりと飛び上がり、別の煌めきに、同化していった。
 その煌めきとは。より大きな虫の羽だ。
 見上げるような、碧色のカマキリ。
 背中に折りたたまれた羽が、蝶達を集めている。

 詩映は、悲鳴をあげそうになった。
 反射的にD.O.Eへ指令、物体認識をかける。
 物理的実体。〝神椿市〟のものではない。
 このカマキリは、確かに目の前に〝居る〟!

 見かけない、見たことのない生き物。
 日々、街を巡回する自律支援機械メカニタントが警告している、常盤木市にだけ現れるという怪物。
 自分にはきっと、縁の無かったもの。

 不可測獣!

 それらが何故現れるのか、未だ明らかではない。
 被害の痕はあるが、実際に報道されることが殆ど無いため、普段の生活に関わらないものだと思っていた。こいつらのために〝花輪リース〟は造られ、下水のマンホール並の頻度で地下壕への待避ルートが用意されたという。でも、こうしてみると廃工場の待避壕はいかにも遠い。

 人の頭よりも大きな複眼が、詩映を捉えた。
「っ……!」
 恐怖が呼び起こされる。
 詩映は、脳内の手掛かりに触れてD.O.Eを操作し、インヴィジブルモードへ切り替えた。完全匿名化状態。

 おとぎ話の化ける動物とは違って、彼女は耳も尻尾も隠れる。D.O.E操作者に対して、光学迷彩と同様の視覚効果が与えられ、実質〝透明人間〟となることができる。緊急時に、未成年のみ使用が許されている視覚操作だ。

 さっきの蝶達が肉眼で捉えられない、仮想空間上の物体だったから、こいつもD.O.Eのようなもので外の世界を視ているのではないか、という必死に考えた仮定だ。

 カマキリの化け物が首を巡らせた。
 やはり、視えていないのか。
 異常に上がった心拍数と血流、恐怖の感情を流し込まれた詩映のD.O.Eが、事故か、事件かと問う。その質問は彼女の潜在意識を秤に乗せ、自動で回答されていった。
 事件です。

 〈状況は〉
 特殊。
 〈不可測獣(Missing Beast)案件ですか。〉
 YES.
 〈緊急性は?〉

 カマキリが、その巨体を支える筋肉の滑らかな動作で、みしりと踏み込む。少女をまっすぐに目指して。
 なんで!
 声を押し殺した詩映は、ひゅっ、と空気を飲んだ。
 ……昆虫には、赤外線や紫外線を知覚できる種類も居る。たとえD.O.Eにあたる目を持っていたとしても、光学的処理だけでは隠蔽しきれない情報があるのだ。

 へたりと座り込んだ。
 自分の身体を、ぺたぺたと何度も触る。
 光るもの。きっとそうだ。
 この眼鏡が欲しいのかも知れない。

 詩映は、震える手で眼鏡を外し、カマキリの怪物へ投げた。カラカラと転がる眼鏡は、そして蹴り出される。
 最悪の可能性を想像した。光るものが欲しいなんて、適当な希望論だ。そう思い込みたかっただけだ。

 焦る詩映の、貝殻模様のD.O.Eが光る。
 ……もしかして、私の、肉を喰らいたいのか。
「た、助けて……っ」
 少女は思いきり叫ぶつもりだった。

 だけど、歌い慣れても、叫び慣れてもいない、日頃なまった彼女の喉は、弱々しく震えるばかりだった。
 逃げる練習をしていない脚も、石のようだ。

 カマキリは獲物を見つめながら、緩慢に動く。こいつはその気になれば、きっと俊敏だ。事が起きたら、私がそう感じる前に手足や、首は飛んでしまう。
 死に胸ぐらを掴まれた感触。
 高山みたいに、息が少ししか吸えない。
 鼓動が胸を埋める。

 カマキリが腕を振り上げる所だけ、滲んだ目に映った。
 終わりだ。私は短い命だった。
 笑ったり泣いたり、愛されてきた十数年は、骨まで囓られて食べられるため。私は柔らかな肉を育てるために生かされてきた。
 終わってしまえば、そんな物語の出来上がり。
 惨い運命だ。

 ……そこまで嘆息する余裕がある。ことに気付いた。
 思考が知覚に追いついてくる。
 私は、まだ死んでいない。
 何かが、起こった。

 廃工場の傷んだ壁を、波形ポテトチップスを割るように突き破って、膨張した魚類の頭が飛び出したのだ。それは電車が衝突するが如き凄まじい質量で、ずごん、とカマキリの側面にめり込み、そいつを弾き飛ばした。

 紫色のお魚……どこかで見たな……。
 クラスメートの着けていたD.O.Eにそっくりだ。
 そっくり。誰だっけ。
 滑り込んできた紫の魚体の、なだらかに落ちる背面から、制服姿の少女が滑り降りた。髪色は茶色で、素のまま。
 喧嘩別れした、あの子だ。森崎花譜!

 詩映のD.O.Eがわけの分からない文章を受信する。
 〈異獣課が近隣の〝魔女〟を派遣しました〉
 状況は流動的だ。
 〈魔女による保護を優先。透過処理を解除〉
 〈PTSDの緩和のため、以後の感情・記憶操作に同意したものと見なされます。サインは省略されます〉
 ただ、それが遅いということだけは分かる。

「間に合ったね。預言の通り」
 少女は、無機質めいた雰囲気を纏いながらも、奇妙な確信に満ちている。それは、舞台に立つ人を見るような気持ちだ。学生の間で伝わる、とりとめもない噂を思い出した。

 ――常盤木には、魔女が出る。
 彼女達は、気に入った人を見つけると、戻れない壁の向こうに引っ張り込んでしまうのだという。半分真実で、半分嘘の、拡張現実のような不確かなお話。
 でも、D.O.Eまでもが言っていた。〝魔女〟は実在する。
 彼女が、そうだ。

「貴女が鍵だって、話して分かった」
 階下に落ちた怪物は、まだ姿勢を立て直せずにいる。
「魔女は少ない。だから、預言で動かないと。遅れて、怖い思いをさせて、ごめんね」

「い、いい、いいよ……それより」
 目で訴えた。ここから逃げよう。
「?」
 花譜は首を傾げた。
 血の気が引いてゆく。
 何考えてるの、なんで!

「らぷらす、お願い。ちょっと話すから」
 花譜は傍らの、紫色の巨大魚に呼びかけた。
 言われたとおりにギザギザの亀裂をがばと開いて、紫の魚は下方のカマキリに躍りかかる。その巨体がぶつかって、廃工場の手すりが柔らかく曲がった。

 オパールの羽を羽ばたかせて姿勢を御し、カマキリはひとつ鳴いて戦闘体勢を取る。
 宙を泳ぐ〝らぷらす〟は、身体の三分の一もある亀裂で、カマキリに横向きで噛みついた。尾びれで空を掻いて前進し、そのまま噛み千切るつもりか、首を振る。その口からはみ出したカマキリの腕が、らぷらすを傷つけようと何度も刃を立てる。鱗ひとつ無い、つるりとした表皮が弾き、繰り返すうちに、すっと雑な筋が入った。

 堪らず、らぷらすはカマキリを放り出す。
 鰭を優雅に動かして停滞し、巨大な顎を開き、閉じて威嚇した。カマキリは両の腕を振り上げる。
 その格闘戦の最中、花譜は目の前の詩映に話しかける。

「詩映……ちゃん。聞いてほしい」
 ちゃん付けで呼んでくれた!
 今、そんなことに気が付いても。
「私の〝観測者〟になって」

〝花譜ちゃん〟は自分の胸に手を当てて、私に求めた。
 それは、唐突な言葉を補完する丁寧さも、拒絶されるかも知れないという恐れも無かった。自動人形オートマータのような所作と、瞳の動きだった。

 学校に居たときからそうだ。違和感の正体は。
 彼女が人形みたいだったということだ。
 じゃあ……そんな心無きものが、何を求めるんだ。

 疑問と、興味。
 心が沸々と泡を立てる、そんな気持ち。
「観測者って、何を……、するの」
 こんな状況で。私を救いに来たはずの彼女が。
 立場が逆じゃないのか。

「私を見て。私の姿を捉えて、定める役目を負って。難しいことじゃないよ」
「私が見ていれば、花譜ちゃんは」
 私の代わりに?
 あの化け物と……戦う?
 そんな、知り合ったばかりの彼女に、危険を被せるなんて、許されることじゃない。

「だめだよ、警察呼ぼう!」
「時間が無い。らぷらすは喧嘩が苦手だし……」
 階下のらぷらすは、カマキリに圧されつつある。
「〝笛吹き〟が言っているんだ。詩映ちゃんを選べ、って。私にはそう読めている。だから、そうする!」

 花譜は、不意に詩映の両肩を掴んで、引き寄せた。
「えっ」
 綺麗な顔が近い。
 ちょっといい匂いがした。
 目を逸らさずに、見つめてくる。

「私は、何に見える?」
「何って……」
 その言葉を引き金にして、意識は黒い瞳孔へと引き込まれてゆく。らぷらすとカマキリの怪物が絞り出す唸り声が、遠のいていった。ああ、こんなに透明なまなざしだったんだと、詩映は改めて思う。

 ――花譜ちゃんは、花譜ちゃんでしかない。三葉虫の末裔や、深海魚や、電気ポットでは有り得ないから。いままでの事を振り返ると、宇宙人のセンなら有力かもね……いや、都市伝説の魔女だったか……思考がぐるぐると巡ってゆく。花譜の、目の奥の闇に、詩映は浮かんでいた。

 やがて地に足が付くと自宅の机に膝がぶつかる。
 背丈は今よりも小さく。壁に掛けられた制服は形が異なる。中学のことだ。窓からそよぐ夜風を感じながら、仮想の参考書を開いていた時のことを思い出していた。気晴らしにプライベートファイルを開いて、ちょっとした絵を描いていたこと。あのファイルはどこへ行っただろう……。

 放映されていたアニメに引っ張られた感じの、自分で考えた魔法使いの物語。夢の世界に集まった少女達は、街に住む人々の負の感情を喰らう、腹を空かせた厄災達を次々と祓っていった。

 書きかけの物語は、ファイルの途中で途切れていたのだが。後のページに、覚えのある少女が描かれていた。
 ぱらぱらとめくられる少女の描線は滑らかに動き、屈み込んで詩映に耳打ちするのだった。
 〝物語のつづきは、貰ってもいいかな?〟

 耐えきれなくなったらぷらすが、たまらず壁の平面に逃げ込み、四隅の闇に消えた。カマキリの怪物が頭上を見る。見つめ合う二人の少女の、片方が立ち上がった。
「トキワ東製作所。人を払った洞に、オパールの輝きを集める剃刀。時を告げる鐘とともに出会った者を引き入れ、運命に抗え……全ては〝笛吹き〟の預言する通り」

 少女、花譜はその高さを飛び降り、事も無く着地した。
 間髪入れず、踏み込んだ刃が振り下ろされる。
 だが、小さな掌はそれを受け止めていた。

 正しくは、手に生じた何らかの障壁が、カマキリの薄い刃を防いでいた。
 花譜は五指を曲げ、手首で圧す。
 それだけで、カマキリの怪物は猛烈に弾かれた。

 今度はオパールの羽を広げ、器用に着地する。
MELLメルの見立てでは、確度が低かった。だから、私とらぷらすだけ。でも、詩映ちゃんまで、巻き込んでしまっている」
 化け物を正面にして、向き直った。

「人を襲った不可測獣。私なりの責任を取ろう……詩映ちゃんの〝物語フィクション〟で」
 花譜は目を閉じ、開いた。
 瞳孔に、眩い星の光が宿っている。

「――接続」

 その時、〝物語フィクション〟と〝現実リアル〟の繋がる音がした。
 ウルフカットの髪は、乙女椿の薄く華やかな色に染まってゆく。D.O.Eに映しされていた、仮想であるはずの髪の色。

 どこからともなく戻ってきた魚の怪物、らぷらすが、その美しい髪を覆うように変形。首から上を覆う青色のフードを成す。学生服のブレザーとスカートには、白いガラス片のような文字列と記号が寄り集まり、新たな機能が形成されていった。やがて生まれた水色のコートには、不可解な幾何学模様が描かれている。
 すべてが活きていて、彼女の身体の一部を成していた。

 ――花譜 第一形態 雛鳥

「あ……花譜、ちゃん」
 意識を取り戻した詩映は、下を覗いた。
 見かけた子が、見たことのない服を着て立っている。

 花譜が振り返った。
「詩映ちゃん。貴女の〝物語フィクション〟、確かに受け取ったよ」
 再び飛び掛かったカマキリの両刃が、また阻まれ受け流されてゆく。障壁は、何者をも通さない殻だ。花譜は、都度生成される殻で護られていた。
「こんなにも豊かで、強いものを秘めていたんだね」

 その自在に発現する殻を振り上げ、思い切り叩きつける。見た目は細い腕でありながら、カマキリは大げさに吹っ飛んで滑り、工場を大いに揺らした。

「す、すごい」
 安全な上階から、詩映は驚きの声をあげる。
 花譜ちゃんは、何者なのだろう。
 魔女って何だろう。
 分からないことだらけで混乱しながら、詩映は心が沸き立つのを感じていた。

 姿勢を立て直すカマキリに、彼女は指差し、宣告する。
「最初の定め。名前を決めよう。セルタス!」
 ぐるりと首を傾げ、キリリリと唸った。
「〝物語フィクション〟は有り得た世界の可能性。仮定と実際が重なるこの〝現実リアル〟に現れた、お前達――不可測獣の横暴を、私は許さない」

 雛鳥の〝物語フィクション〟を纏った花譜は続ける。演者のように、先程までは見せなかった意思を込めて。

「けれども、お前は決して殺さない。望むなら、定めて受け入れよう。この世を拒んで終わらぬ旅を続けるか、私達と共に生きるか、選べ!」
 距離を取ったカマキリの巨体、〝セルタス〟は、その呼びかけに応じる代わりに、羽を震動させる。その光彩から、するりと蝶が現れた。

 それはたちまち群れとなり、ちらちらと目を奪いながら、雛鳥の少女を囲んだ輪となる。
「花譜ちゃん!」
 詩映が叫んだ。

 花譜を護っていた殻は、渦を巻く蝶の群れがオパールの光を放つ度に小片を剥がされ、奪われてゆく。どうやら、あの殻はD.O.Eと同じ仮想空間で制御・操作していたらしい。纏った〝物語フィクション〟では、彼女の身はもう守り切れない。

 渦の中から、花譜は――詩映を見た。
 直感する。この不可解な戦いの鍵を握っているのは、自分なのだと。観測者……自身のイマジネーションが、花譜に力を付加しているのだ。

 詩映はわけもわからず手を組み、祈りの姿勢を取った。
 そう、あの時の。書きかけのファイルには続きがある。
 心の奥にしまっていた物語を、惜しまず開いて。
 厄災を祓う魔法使いの少女達はやがて別れ、そして……成長して、再び集まるのだ。それだけじゃない。まだ書いていない話だってある。ここで終わったりするものか。
 花譜が頷いた。
 そうだ。物語は、つづく。

 フードを形成していたらぷらすの青は、肩を覆うほどに広がり、ストールへと変形した。幾何学模様を描いていた水色のコートもまた、あらたな生を得て組み直される。

 ――花譜 第二形態 青雀

 髪を片側に束ね直し、転身した花譜は両手を広げた。
 D.O.Eでしか視えない神椿市に、突風が舞い起こり、蝶の渦が瞬時に吹き散らされる。

「私達は〝異住定獣課〟。求めあれば応えよう」
 恒星の宿る目が、怪物を正眼で見つめる。
 気圧されたのか、セルタスは後ずさった。

「……お前は、どうしたい?」
 花譜は化け物に向かって、踏み込んでいった。
 セルタスは鋭い刃を上げたまま退がり、迷い無き少女を恐れてか、壁に追い詰められる。
 キリリリ、と唸る声。

「生まれも謂われも関係ない。ここに居たいと望むかどうか、必要なのは――それだけ」
 花譜は手を伸ばした。
 その様子を、詩映は身震いしながら見つめた。
 差し伸べた腕を切断することだって、出来るはずだ。
 可能性は、どんな方向にも開かれている。

 けれども、セルタスは動かなかった。
 ついに、その刺々しい身体に花譜は手を触れる。
 少女の手が、胴体にずぶずぶと埋もれていった。

「強すぎる〝物語フィクション〟はきっと、身を滅ぼすから……おいで、セルタス。鎧を脱ぎ捨てて、私達は触れあおう」
 やがて、セルタスの身体は端から記号の欠片と代わり、さらりと砂のように解けてゆく。消えていったその身体は、水を掬う捧げ手に、小さな一匹の虫を残した。

 これが、〝物語フィクション〟を繋ぎ直し、生まれ変わったセルタスだ。花譜のやったこと、彼女の言う〝異住定獣課〟の役割が、これなのだと詩映は理解する。

 セルタス。彼は、手乗りのカマキリとなった。
 脅威は去った。詩映は力が抜けて、その場にへたりこむ。
 どっと汗が吹き出した。
 幻想的だが、悪夢のような時間だった。

〝青雀〟の形態を解き、花譜は元の制服姿に戻る。
 ストールを形成していたらぷらすは、現実の彼女の茶色い髪に付き、丸いD.O.Eとして擬態する。紫色の地に、赤い目をした、ギザギザの口。
 小さくなったセルタスを肩に乗せ、廃工場の階段を登り。

「か、花譜ちゃん……怖かったよお」
 涙目の詩映に比べて、ついさっきまでのことすら、何も感じていない様子だった。肩のセルタスは、ナナフシみたいに前後に運動している。花譜は言った。
「……アイスクリーム、食べよう」


 外はすっかり日が沈み、灯りが点いたコンビニの前で、二人は買ってきたカップアイスのフタを開けた。支払いは退店時に引き落とされる自動式だ。
 平たい木のスプーンで、固くなっているアイスをざくざくと削り、口にした花譜はおもむろにガッツポーズを取る。
 目がキラキラしていた。

 ここまでお人形みたいなのに、アイスにだけ反応を取るんだな、と詩映は思った。彼女の手は、まだ震えが止まらなくて、板状のスプーンがアイスに刺さらなかった。眼鏡だって、ひび割れた物を拾ってかけている。

「だ、だめだ。私、ショックで」
 放課後に友達と買い食いなんて、願ってもないシチュエーションなのに。どうしても、ほとんど臨死体験だった先程のことが忘れられない。それに気が付いた花譜が、詩映の手に手を重ねた。無機質なのに暖かくて、アイスが早く溶けてしまいそうだった。

 やっと、スプーンでアイスをひとかけら削って、口に入れた。ひんやりとした、バニラの甘さだった。
「……」
 ようやく、生きた心地がしてきた。花譜の話だと、不可測獣の被害者は普通、事後にD.O.Eで感情と記憶を操作するのだという。地震や火災のような本当の緊急時ですら、あり得ない使われ方だが、魔女達にはそれが許されている。まさに超法規的な権限だった。

 しかし、詩映には今回、その機能が使われない。
 忘れさせてもらえない。

 不意に、声がかけられた。
「よお、花譜太郎。バケモンが出たって?」
 コンビニの駐車場に、化石燃料駆動らしき大型バイクが置かれている。それに腰を預けて、個性的な服装のお姉さんがこっちを見ていた。長く伸ばした黒髪が綺麗だ。

「まあ、おつかれか。あたしなら三秒でやるっちゃ。たかが虫程度、楽勝やけん……」
 やさぐれた目をした、花譜よりちょっとだけ年上っぽい少女がコンビニの自動ドアを開いた。ドリップのアイスコーヒーを手にしている。

「その子が観測者。やっと選んだのね」
 日傘を上げて、絵画から出てきたような容姿の少女が言う。いつの間にかそこに立っていた。

「全ては〝笛吹き〟の預言通り。よろしく」
 シャギーをかけて跳ねた髪をなびかせて、長身の綺麗な女性が詩映の肩を叩き、過った。この人もいきなり横から現れている。詩映はD.O.Eで作った尻尾を逆立たせて驚いた。

 遠くにそびえる鉄の〝花輪リース〟は、夕暮れ後も光を放って動き続けている。
 そうだ。常盤木は魔女の街。
 知らない何処かで、魔女達は日々、暗躍している。


 ……観測者とは、今日限りの話ではないらしい。
 花譜は、咄嗟の思いつきであれ、詩映の与える〝物語フィクション〟がいたく気に入ったようだった。戦うのは私だから……、と何度も念を押された。それは、魔女達の属する〝異獣課〟に関わりを持つということだろう。

 花譜が傷つき戦う様子を、果たしていつまでも見つめ続けることができるだろうか。魔女は、気に入った人を見つけると、戻れない壁の向こうに引き込んでしまう。それは、「知らない」と「知っている」の厚い壁だ。ちょっとした好奇心の沸き起こりと引き換えに、詩映は重い責任を負ってしまったと思うのだった。

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