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日本三大がっかり名所? 「時計台」とクラーク博士

本来はあの外観を掲載するには許可申請が必要なので、イメージ画像にしました。
我が家にある時計台のオルゴールです(おそらく1975年製)。

流れる音楽は「時計台の鐘」作詞作曲・高階哲夫。大正12年(1923)の曲です。

さて、タイトルにある通り、数少ない札幌の見どころであり、かつ”がっかり名所”として知られる「札幌市時計台」。
「思ったより小さい」「周りがビルばかりで風情がない」など色々言われています。
が、札幌の開拓の歴史を愛する私にとっては魅力が詰まった建物です。
興味がない人からしたらつまらない建物だとは思いますが、
せっかく札幌に来るのなら、日本国内でも珍しい開拓の歴史に思いを馳せてみるのもおすすめです。
京都や奈良などにはない独自(独特?)の歴史は、やはり札幌でしか味わえないものがあるでしょう。

火事で焼け落ちたような色合い…

時計台の魅力を伝えるために「建設当時は鐘が無かった」とか「元々は札幌農学校(現北海道大学)の演武場だった」とか、よく紹介されるネタを改めて文章にする意味もないので、今回は少しだけ違う角度から時計台を紹介します。長めの投稿になりますが、ご了承ください。

時計台とクラーク博士の関係

現在時計台として知られるあの建物は、もともと札幌農学校の演武場(今で言う体育館)。その建設を提言したのは、農学校初代教頭のクラーク博士でした。
当時のアメリカは南北戦争(1861〜1865)が終わったばかりで、マサチューセッツ農科大学の学長を務めていた博士もまた、北軍の士官として戦い多くの学生を亡くしていました。
そんな経験があったためか、戦中にアメリカで制定された「モリル法」(学校のカリキュラムに兵学も含める)を参考に、学生を将校としても育成することを目指したのが演武場建設のきっかけ。
その考えは、当時ロシアからの脅威にさらされていた開拓使の考えとも一致するのものでした。

明治14年頃を再現したジオラマ。写真左から北講堂、演武場、寄宿舎。現在の時計台は、道路拡張に伴い明治39年に寄宿舎の位置に曳家されました。
別角度からも。右奥にあるのは化学講堂です。

完成当初の演武場は1階が研究室や標本室、2階が訓練場として使われ、中央講堂も兼ねた施設でした。
その後、明治36年(1903)農学校が移転し、札幌区(札幌市の前身)が借り受け。この頃から演武場は「時計台」と呼ばれるようになったそうです。
明治39年(1906)、札幌区に払い下げられた後は公会堂や図書館、講演会の場としても使われ、現在も文化活動の場として多くの人々に利用されています。

クラーク博士から直接学びを受けた北大一期生

北海道大学卒業の歴史上の人物といえば、旧5000円札・新渡戸稲造、思想家・内村鑑三、植物学者・宮部金吾など数多くいますが、彼らは二期生。
キリスト教の道徳観や、実践的フィールドワークに力を入れたクラーク博士の教えは後世に多大な影響を残しましたが、直接的な指導は受けていません。

直接指導を受けた上に「ボーイズビーアンビシャス」という言葉を直接受け取った学生は一期生のみ。
この有名な言葉は「少年よ、大志をいだけ」と訳されていますが、一期生に向け「地位や名誉のためだけでなく、人として物事を成し遂げるために大志をいだけ」という思いが込められているそうです。
彼らは博士を非常に尊敬し、帰国後も盛んに文通していたことが記録に残っています。

現在の2F。

時計台は明治11年(1878)に完成しましたが、クラーク博士が農学校の初代教頭に着任したのは、明治9年(1876)7月〜翌4月のおよそ8ヶ月間。完成時には博士はすでに札幌を離れていました。
しかし、博士の薫陶を受けた彼らは博士が残した演舞場で卒業式をおこない、その後は開拓使に入り北海道の開拓に大いに貢献。道内のあちこちで町の下地や主要産業を作り上げています。

簡単ではありますが一期生13人を紹介します。

◆荒川重秀
開拓使勤めから、後にアメリカへ私費留学。英語教師や新聞記者を経て演劇界に転身し、日本人で初めてシェイクスピアの劇を英語で演じたとされる。晩年は農村社会近代化のために社会教育活動を行った。

黒岩 四方之進
畜産指導者エドウィン・ダンからも直接指導を受け、後に初代新冠(にいかっぷ)御料牧場長を勤め、日高地方が馬産地として隆盛する下地を作る。
※御料牧場…宮内庁直轄の牧場

◆内田瀞
開拓使工業局に所属し、日高、十勝、釧路の内陸部を調査。開拓の基礎となる土地選定や区割りを、実地調査・測量を経て行った。その後、農場を開設し上川地方を中心とした発展に貢献。

◆佐藤昌介
アメリカに私費留学後、農学校教授を経て校長に。東北帝国大学農科大学に昇格後は学長、北海道帝国大学発足時には初代総長。現在も北大構内には胸像が鎮座している。なお、新渡戸稲造と共に、日本初の農業博士となった。

◆渡瀬 虎次郎
現北海道農会の前身にあたる北海道勧農協会を設立。以降、東京にて大日本農会の中枢としても活動。「東京農業大学の生みの親」とも言われる。近代的種苗業の先駆者。

◆伊藤一隆
北海道庁の初代水産課長としてアメリカの水産業を調査。千歳川鮭鱒ふ化場の設置など、北海道の水産業の改善に尽力した。官界を去った後は水産会社や石油会社を興して成功。なお、しょこたんこと中川翔子は玄孫にあたる。

◆井出 晴太郎
学位取得の誉を報告するための帰郷の船旅中、急性腎臓炎を発病。不幸にも東京到着と同時に他界。

◆大島正健
入学当初は反キリスト教だった内村鑑三(キリスト教の日本化を目指し、言論活動を生涯貫く)を熱心に誘った。卒業後は札幌独立教会を設立し、最初の牧師に。生涯を通してクラーク精神を広めた。なお、伊藤一隆の妹・千代と結婚。

◆柳本道義
北海道庁にて区画割事業の監督として活躍し、開拓事業の基礎を固めた。大洪水被害にあった奈良県十津川村の住民を北海道に招き、新十津川村誕生の礎も築く。後に台湾総督府に赴任。

◆小野兼基
動植物の改良に従事し、現業員の教育に当たる。日清戦争中は日本人教会会長として、残留居留民のために尽力した。

◆佐藤勇
開拓使工業局に配属され、鉄道業務に就く。しかし、その後は消息不明に。親友だった大島正健曰く「自分たちと思いを異にし、卒業後音信不通…」

◆中島信之
開拓使民事局勧業課に配属されるも、まもなく他界。在学中は日本語、英語で多くの弁論を行った。

◆田内捨六
道路予定路線と開拓適地調査のため道東を調査。また江戸末期に発見されたストーンサークル、忍路(おしょろ)環状列石の発掘調査も行った。これは日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークル。

まとめ

残念スポットと言われても、時計台は私たち北海道民、とりわけ札幌市民にとってとても大切にしたい施設です。時計台で学び、ここから巣立っていった生徒たちがいたからこそ、今の私たちの生活があると言っても過言ではないでしょう。
今では誰も覚えていないかも知れませんが、昭和38年(1963)に制定された「札幌市民憲章」では、その前章で
『わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です』
とうたわれています。
まごうこと無く、札幌のシンボルなのです。

一時期、時計台をさらに別の場所に移し、観光スポットにしようという話が出ていましたが(どうなったんだろう?)、時計台はあの場所にあることに意味があると思います。
どんなに景観が悪くても、あの場所にあり続けてほしいと願うのは私だけかもしれませんけど。

#わたしの旅行記

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