変な島
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僕は、砂浜にいた。
雲が覆う空を映し出す海から打ち返す波は砂を灰色にしては戻っていく。
何もなく、唯磯臭いだけの街。
ここに来るまでにフェリー乗り場以外で人を見ていない。
それどころか、フェリーでこの街に着いたのは僕一人だった。
なんとなくだが、生まれた故郷を思い出す。
粗暴な海の男。
ヒステリックに叫ぶ女。
逃げるように裸足で走る港町。
足の裏にこびりつく砂粒。
枯れゆく街を眺める老人。
逃げるように潜り込む洞窟。
腰掛けた岩の裏から出てくるフナムシ。
すべての思い出は、気味悪く僕の記憶の裏にフジツボのようにへばりつく。
あーあー、イライラする。
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いつからだろう。
追想した時に湧き出ていた羞恥心が怒りになったのは。
過去は、常に僕の心から何かを奪い取る。
それは正しさであり、情熱であり、希望でもある。
つまるところ、未来と呼ばれるものだ。
一度過去に呪われた人間には未来など来ない。
故郷に、縛り付けられているのだ。
いつまでも、タバコに火はつかない。
ポケットにいつも入れているジッポライターがないからだ。
どこかで落としたのだろうか。
大学に入学した際に買った高めのジッポライター。
今日、ここに来る前に荷物検査を通る際にも拙い英語で死守した大切なものだというのに。
ああ、いつだってこうだ。
大切なものをすぐに失くす。
息が上がってきて、中指と薬指の間に挟んでいたタバコを落とす。
はあはあと苦痛に喘ぐ声が耳に入ってくる。
耳元で、何かが囁く。
「結局大切なものを捨ててしまう」
違う、わざとじゃ……
「故意か過失かなんか関係ない」
喉元まで酸っぱいなにかが駆け上がってくる。
ガーガーと耳障りな声を上げるのは機内食のチキンだろうか。
っ…うぉえっ………ごほっ、お“えっ、う……っは、ぉええええええっ!
叫んでいたのは、チキンだった。
吐き出した黄色い液体の中で、チキンにかかっていたペッパーの一粒一粒がギョロリと僕を凝視する。
柔らかいはずのチキンは、少し静かにしたかと思えばまた喚き出す。
ほら、ニャアニャア鳴いている。
知っているかい?
鶏は猫のように鳴くんだ。
僕は実際に聞いたことがあるから分かる。
生きたままの鶏が足を切り取られ、ニャアニャア鳴く。
いや、あれは猫か。
その鶏とも猫とも区別のつかない獣に僕の腕は伸び、黒金色に光るメスが首を……
違う、これはすべて幻だ。
悪い夢だ。
全部、全部。
空に見える厚い雲も、どこまでも続く水平線も夢なんだ。
この世界は大きな大きな神が見ている夢。
「食事すらまともにできないのか」
ああ、うるさい。
五月蝿いんだよ。
騒がしくするな。
そうやって馬鹿にすることだけでお前は存在できるんだから楽だよな。
必死こいて生きている人間を馬鹿にして、踏みつけて、自分だって同じちっぽけな人間だろうに。
「何か、探しもの?」
いつの間にやら、目の前には長髪の人間が立っていた。
160cm程度の身長から察するに女性だろうか。
いや、声は低い。
「何でもない」
虚勢を張る。
大学に入って、虚勢を張るのがだいぶ上手くなった。
教授にも、同じクラスの人間にも。
「落し物をしたんじゃない?」
そういった彼(彼女かもしれないが、ここにおいては彼とする。ジェンダー問題が叫ばれる今、こうしておくことで多くの人からの非難を避けることができる。人は誰しも、粗を探せる他人を探しているのだから)の手元に黒金が輝く。
黒金は太陽の光を吸収する。
それは紛れもなく、僕の落としたジッポライターだった。
「ありがとう」
感謝を告げ、彼に近づく。
「それだけ?」
それ以上に何があるのか。
感謝だけで足りないのか。
言葉による。
謝礼を払えというのか。
「金ですか?」
金で解決できるならそれ以上の事は無い。
この世は金で回る。
善意は金に飲まれ、やがて赤銅色となる。
「お金はいらないよ」
じゃあなんだ。
尊厳か?
土下座でもすればいいのか?
こちとら砂浜であろうと土下座することに躊躇いは無いんだぞ。
いや、自分が先程吐き出したものの上で土下座は出来ないか。
それを望むのか?
汚物の上に顔を乗せ、舐めればいいのか。
ああ、神よ。
我はそこまでのことをしたのでしょうか。
汝の救いは経験したことがないのに、罰だけは味合わなければいけないのでしょうか。
「一つ質問に答えてくれれば良いの」
「あなたはなぜこの島へ?」
そんなこと、僕が知るか。
教授に言われたからここにいる。
主体性を失った現代人の末路だ。
誰かに指示され、与えられた通りに生きているだけだ。
僕達は常にサジェスト……示唆されながら生きている。
何かを調べようにもすぐにサジェストが目を汚染する。
「ここに来て、ものを探せと言われただけです」
ここで嘘をつく意味は無い。
僕はサジェストをそのまま答える。
「探し物はなに?」
目の前の彼は僕を嘲笑うように言う。
落し物をするような人間が探し物をするのか、と言うように。
いや、実際はそんなことを言っていないのかもしれない。
ここで大切なのは僕がそう感じたということだ。
相手がそう感じれば、それは事実となる。
思い込みが真実と異なるとしても、そう思ったことは事実なのだ。
虚構は一瞬にして事実となる。
真実と事実は異なる。
「これです」
僕はポケットから紙を取りだし、見せる。
教授の拙い日本語の書かれた紙。
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なんと読むかも分からない字。
ただ、本ということしか聞いていない。
附属図書館においてこの本の写本が何者かによって燃やされたため、原本を回収するよう指示されたのだ。
「ふーん。聞いたこともない」
「なんでそんなものを?」
「僕の不徳によるものです」
それを超えた説明などない。
「不徳?」
彼には難しい言葉だったか。
「人の行うべき道に反したのです」
辞書的な意味で言い直す。
「人の行うべき道?」
「僕はしがない大学……ミスカトニック大学と言う大学に通う大学生なのです」
「そこで不徳を為したため、この名も知らぬものの回収を命じられたのです」
「不徳の意味は何となくわかったけど、具体的に何をしたの?」
「世の大学生が必ず行わねばならぬこと……レポートの提出期限をすぎてしまったのです」
持って回ったところで、真実というものは常に一つ。
僕の不徳と言ってはいたが、結局のところレポートの提出期限を過ぎた人間に課せられた罰と言うだけだ。
旅費は大学持ち。
僕が精神に異常をきたしている……と診断することで僕を陥れようとしている異常者どもに説得されたフランシス教授が療養も兼ねて勧めたというのがこの実。
僕が精神に異常をきたしている?
馬鹿馬鹿しい。
寝言は寝て言え。
ミスカトニック大学に現役合格した日本人など数える程しかいない。
英語など満点だったと言うのに。
ただ、最近はその英語すら口から出なくなっているだけだ。
僕の中の僕が騒ぎ、僕の中の僕の中の僕が僕をバカにし、僕の中の僕の中の僕の中の僕の中の僕は何者だ?
心には1人いればいいのだ。
僕は1人だろうに。
レポートだって、本当は出せたんだ。
フランシスモーガン教授はいつも意地の悪いレポート課題をだす。
しかし、考古学なんてものはひとつの点を覚えておけば簡単に解ける。
過去と未来の対比だ。
連続した時間軸に飛び込めばいいのだ。
なのに、過去の僕が邪魔をする。
そうか、この旅は過去と向き合えという意味なのか。
正常な僕に与えられた正常な課題。
あー、過去は僕をイラつかせる。
何が異常者だ。
精神に異常をきたしているだ。
この世界が異常なだけだろうに。
「……お兄さん、どうしたの?」
どうやら考え込んでいたようだ。
いつの間にやら彼は僕の目の前まで来ていた。
僕は目の前の彼からジッポライターを奪い取り、箱から取りだした新しいタバコに火をつける。
「あ……」
火はつかない。
湿気っているからだろうか。
何度も火打石同士を擦り付け合うが、閃光が目を眩ませるだけでそれ以上は何も起こらない。
僕はもしや、と思いジッポライターからインサイドユニットを取り出す。
ああ、オイルが足りていない。
機内にオイルの持ち込みが出来ないため、こちらに来る前に十分に足したはずだったのだが。
「補充もまともに出来ないのか?」
うるさく騒ぐ。
「ここは禁煙だよ」
生きづらい世の中になったものだ。
嗜好品もまともに楽しめない世界に、生きている意味などない。
愛しきアーカムシティ。
僕の部屋がある街。
あの街に早く帰りたい。
汚い壁紙、不衛生な下水道、ヤク中の隣人。
たまに来る宗教勧誘。
僕の心のように醜い街。
街角から魔族がピョッと出てきてもおかしくない怪人たちの街。
「喫煙所はありますか?」
「禁煙の島でタバコなんて売ってる訳ないじゃん」
素晴らしい街だ。
僕の故郷とは違う。
やることが漁しかないからタバコと酒と大麻が横行していたあんな街とは。
「早く回収して住処に帰りたいものです」
「本を探すなら図書館にでも行ったら分かるんじゃない?」
グッドアイデア。
「図書館はどこです?」
「あそこの山の上。でも今日は満月の日だから閉館日だよ」
成程。1泊確定という訳だ。
しかし生憎この島の宿など取ってはいない。
財布の中に帰りのフェリーのチケットが入っているだけ。
木の1本も生えていない山の上まで行って1日野宿するのは辛そうだ。
「計画性がないんだな、阿呆め」
計画性なんてものがあるのならもう幾らでも死んでいるさ。
「この近くに宿があるけど、泊まる?」
「ええ、そうさせてください」
願ったり叶ったり。
神は我を見放さず。
落し物を拾ってくれるばかりでなく、僕も拾ってくれるとは。
捨てる神あれば拾う神あり。
「神よ、感謝致します」
「……神ってボクの事?」
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どこか湿った古民家の一室で僕は眠る。
いや、正しくは眠るふりをするだろうか。
布団に入ってから眠るまで5時間ほどかかる僕には”ふり”と言った方が適しているだろう。
あちらで飲んでいる眠るための薬はこちらの国では違法なので当然機内に持ち込めるはずがなく。
しかも現在はまだ18時。
春先だと言ってもギリギリ日が出ている時間。
眠れるはずがない。
ポタ、ポタと雨漏りのような音が部屋中に響く。
雨は降っていなはずなのに。
「幻聴だよ」
幻聴が幻聴だと断言するのか。
自嘲する。
彼は僕をこの古民家へと導き、入りもせずそのまま走り去っていった。
風のような人間であった。
「失礼します」
「はい、なんの御用でしょう」
「お風呂の準備が出来ました」
これまた手厚いサポートだ。
風呂が着いている宿泊プランだとは思いもしなかった。
まあ120ドルも払ったのだから当たり前か。
アーカムの部屋では常にシャワーで済まし……いや、浴槽は前の住人の血がこびりついているので済まさざるを得ないと言った方が正しいだろう……ていた僕にとって久しぶりの湯船は心躍るものだ。
「やめておけ、風呂になど行くな」
勝手に言っておけ。
僕は僕の心の赴くままに風呂に入るだけだ。
「その心が否定しているんだろうに」
僕のインサイドユニットはオイルも入れていないのに饒舌だ。
これまた長髪で性別の伺い知れない女将(女将というのは不確かだろうか。しかし男将という言葉はない。若旦那などと言えばいいのだろうが、生憎目の前の人間は若そうには見えない。ということでここは女将としておく)について行く。
「この島にはなんの御用で?」
世間話は苦手だ。
僕の中に何も詰まってないのを見透かされるようで。
何も詰まっていない、いや何も詰まらない人間。
つまらない人間が話せることなどそうそうない。
おかげで美容室にも行けやしない面倒で、つまらない人間だ。
自分で切り揃えた白髪混じりの髪はギザギザとバランのようになっている。
「探し物です」
「こんな島にはあなたの求めるようなものは何もありゃしませんよ」
「ええ、僕もそう思いますけどね。ただでは帰れないのです」
「そうですか……まだ大学生だと言うのに可哀想に」
「はは、こんな僕を憐れんでくれるとは。往生しますよ」
女将は黙ってしまった。
これが話を切りあげる最大の方法。失礼メソッド。
今、この場において上は僕だ。
金銭による契約が生じている時点で、目の前の女将は僕の下なんだ。
話を切り上げられるならそれ以上の事は無い。
女将は廊下の最中で突然止まり、固い戸で締められた窓の前に立つ。
僕は女将より先に行った所でその先が分からない。
素直にその後ろで立ち止まった。
「この島の昔話を知っていますか?」
「さあ。島のことなど何一つ調べずに来たので」
「昔、尾部土という漁師がいたのです。彼は人魚とこの島を引き換えに何かを交換する契約をしたらしいのです」
「契約?」
「何を得るのか。それは島の外の人には話せませんしかし、何を失うかは話せるのです」
「何を失うんです?」
「まあ、それは見れば分かるでしょう」
女将は固い戸の端についてたクレセントに手をかけ、回そうとする。
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回すという行為は嫌いだ。
何かを締め付けていたものを外せば、それは爆発する。
僕と一緒だ。
何かが回れば、僕の中の僕が騒ぎ出す。
僕は無意識のうちに女将の手を止めてしまっていた。
ああ、良くない。
僕の中の僕が現れる。
僕の身体はそいつに支配されるのだ。
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焦りからか、ヌメっている女将の手を力強く握りしめる。
「何を……」
「ああ、素晴らしきこの世界。
テロリズムは毎年のように起こり、太陽の周りを回り続ける。
二重回転によって生じた螺旋が僕たちを異常にさせるのです。
1杯いかがでしょうか、常識という名の珈琲。」
「はい?」
「ええ、お察しの通り僕は異常です。
これより始める推理は異常な人間の言う異常な戯言。
しかし、それを異常と決めるかどうかの権利は誰にもありません。
そもそも、この島が不思議だったのです。
人はほとんど居ない上に、居ると思ったらみんな長髪で性別も分からない。
タバコも吸えない。
こんな娯楽もない島で吸えないなんてのは異常ですよ。はっきりいって。
そして図書館の場所。
海風を防ぐために山の上に立っているのは分かりますが、満月だから休館というのはおかしい。
新月だから暗くて休館、と言うなら分かりますがね。
極めつけにこの家。
どこか湿り、窓は固く閉ざされている。
雨漏りなんかしないはずなのに何かが垂れる」
僕は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「そして先程の彼。僕は一言も探し物が本なんて言っていないんです。
しかし、本だと分かっていた。
そして貴方。僕が大学生だと知っていた。」
女将は黙り込む。
握った手のヌメヌメが加速する。
「満月。海沿い。今日は満潮の日。
そして満潮の日は閉館の図書館。
木の生えていない山。
不自然な雨漏り、いや海漏りとでも言いましょうか。」
「そのドアを開ければ海水が流れ込んでくるのでは?」
ヌメヌメ、ヌメヌメ。
「最後に長髪の意味。そうですね、これを最後にした理由は簡単。ここからは可逆なのです。この証明は結論から仮定へと遡れる。結論さえあれば、仮定は正しくなるのです」
僕はヌメヌメとした手を離し、女将の長髪を払う。
それまで髪で隠れていた首元には、魚類のようなえらがあった。
「……見ましたね」
「手のヌメリ、貴方。魚人ですね」
ああ、教授が僕の外の僕をここに導いたのはこれが理由なのだろう。
インスマウスの影。
魚人によって支配された街、インスマウス。
島という閉鎖空間において異常性を気に留める者もいない。
実在したとは。
神に感謝。この出会いに。
そして最後の解き明かしといこう。
「これが推理小説なら編集から没を食らうでしょうね。あまりにもあからさますぎて。では何故こうなったのか。
僕に気づいて欲しかったのではないですか?」
「……何故?」
「先程言っていた失うもの……それは生贄なのでは無いですか?
しかも、事情を知っている生贄。
連中は人の狂気や恐れを主食としますからね」
「人魚とぼかしていましたが、どうせ契約したものの正体は深き者どもでしょう。大学で考古学を専攻していましてね。僕の外の僕が」
深き者ども。
「……知っているなら話は早いですね。満点はあげられませんがぁ……がぁ……ばぁうんる」
女将はそう言うと、髪の毛をバサッととる。
どうやらカツラだったらしい。
頭髪のない魚のような顔にエラ。
服を脱げばヒレもあるのだろう。
なるほど、これが実際の深き者どもと言う訳だ。
人が想像によって創造した絵もいいものだが、やはり実物にはかなわない。
目の前の化け物は五感を刺激する。
あまりに異物であり周りから浮いたように感じるだけでなく、三角コーナーのような匂いを常に漂わせる。
深き者どもと契約することで深き者どもの一員になる。
そしてその代償として生贄を捧げる。
まさかインスマウス以外にこんな街が存在するとは。
存外、この世はそんな場所ばかりなのかもしれない。
廊下の右左両方から、似たような見た目の魚人が2.3匹ずつ現れる。
「いあ、いあ……だごん、はいごん……ふたぐん……」
魚人たちはダゴンとハイゴンを賞賛しながら近付いてくる。
やはり深き者どもはダゴンとハイゴンを賞賛するものなのか。
これは今後のレポートに役立ちそうだ。
メモメモ。
「……万事休すですかね」
僕は諦めたように、固い戸へと背中を預ける。
「……ああ、先程考古学を専攻していると言いましたが、実際のところ有機化学も好きでしてね。とくに身近なものの組成式を調べるのが好きなんです」
深き者どもは僕の言葉には耳も貸さず、尖った指を舐める。
獲物を前に舌なめずりとは二流のやること。
「そう、その中でも好きなのがニコチン。これは示性式で書くとC5H4NC4H7NCH3……大切なのは終盤で……詳しいことは省きますが水溶性なのです。先程の推理でタバコに関してはぼやかしたのはこうなることを推測してたからですね」
「そしてニコチンの致死量は人間だと1200mg。まあ早々摂取はしない量ですが、これは胃酸が溶かすことで和らげてくれるからです。では魚類では?胃酸がない魚類には……匂いだけでも辛いでしょうね」
僕はポケットからタバコの箱を取り出す。
「これは僕が愛飲しているガラム。ニコチンの量は……通常の倍以上」
僕はそう言ってネジをゆるめる。
一気に海水が流れ出すと同時に、僕はガラムのフィルターを全て破り、身体にふりかけた。
ああ、僕の給料よ、さらば。
そして悲しみよこんにちは。
旅費としてガラムを負担していただけないだろうか。
僕は息を止め、海を泳ぐ。
目指すは図書館。
そこに本があるのかは分からないが、行くだけ損は無いだろう。
その後の追跡劇については多くは語らない。
もし奴らが奨んで毒物に近寄るような阿呆なら、この島は今まで隠し通せなかっただろう。
君子危うきに近寄らず。
僕はその後不気味に静かな魚人共から命からがら逃げ、夜の海をフェリーに乗り逃走したのだった。
余談だが、フェリーのエンジンを回した時に僕の中の僕は収まった。
詳しくは『インスマウスの影』でも読んで欲しい。
大体そんな感じなのだから。
という訳で、この話はここで終わりにさせたいと思う。
図書館にも無かったので本は回収できなかったが、あの島が深き者どもの根城だったということが分かれば充分だろう。
化け物と戦うのは僕の仕事ではない。
あとはウィンゲート教授と……その知り合いの探偵さんが何とかしてくれるはずだ。
このレポートは以上で終わりにする。
進級をよろしくお願いします。
本当に。
マジで。
「…………」
「教授、それがあの気狂いのレポートですか?」
「ああ」
「医務室の検査によれば統合失調症で精神分裂症なんでしょ?そんな人間のルポになんの意味があるんだか……どこまで妄想か分かりませんよ」
「……だからこそ、私は彼をあの島へと送ったのだ。外なる神々……狂ったものに対抗できるのは気狂いだけだからな」
「……まあ、生還したのは素直に褒められると思いますけど」
「しかも面白いこともわかった……これを見ろ」
「これは彼の戸籍ですか?これがなんの……あっ」
「そう、彼の母親の旧姓。尾部土。」
「たまたまにしては……」
「半分正解と言った理由はこれだろう。深き者どもは彼を仲間だと思ったから気付かせたわけだ。選択権を与えるために。つまり彼には利用価値がある。私の研究室に来させよう」
僕はアーカム3丁目にある、外国人向けのアパートに居た。
隣でヤク中がまたキメてるのか、爆音で音楽が鳴り響いている。
僕はガラム(旅費では落ちなかった)を1本取りだし、ジッポライターで火をつける。
ジッポライターは拭いても拭いても少しヌメっている気がするが、まあ気分によるものだろう。
インサイドユニットは使い物にならなかったので別のものを移したが。
どうやらあの時、インサイドユニットからオイルを抜くだけでなく、ついでに海水に付けられたらしい。
バッドに入っていた僕は全く気が付かなかったが。
「居るんでしょう!?廊下まで煙が出ています!ここは禁煙ですよ!!」
ああ、うるさい管理人が来た。
僕より先に隣のヤク中を取り締まればいいのに。
責任転嫁は僕の得意技だ。
論点のすり替えと責任転嫁さえ出来れば世の中は生きていける。友人は居なくなるが。
元々居ない僕には関係のない話か。
「開けますよ!」
マスターキーを使い、扉を開ける音がする。
ああ、不味い。吸殻を見られたら……
管理人の小言は僕の病気を加速させる。
そしてそれでまたタバコを吸うことになる悪循環だ。
身体に悪い人間め。
医者にでもなれば天職だったろうに。
医者なんてのは僕のような善人を異常者だと裁くことしか出来ないのだから。
僕は目の前にたまたま置いてあったコーヒーに目をつける。
コーヒーに火がついたままのタバコを入れ、そのコーヒーを飲み干した。
ニコチンの溶けた珈琲は土を這う虫のように苦い。
ああ、不味い。
僕は吐き気を抑え、玄関へと向かうのだった。
終
この物語はフィクションです。実在の人物、団体名とは一切関係がありません。
『インスマウスの影』を読むことを推奨します。
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