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家康は腹黒?

家康のイメージ
徳川家康というと腹黒というイメージが一般的にある。結果的に豊臣秀吉が統一した天下を横からすり取ったという事実がそのイメージを冗長させている。しかし、実際には家康は豊臣政権との共存を目指す動きを見せている。

孫・千姫の縁組
関ヶ原で勝利した家康は1603年征夷代将軍に就任する。その7か月後豊臣秀吉の遺言通り、豊臣秀頼と家康の孫・千姫との間で縁組が成立した。(敵対していた徳川家と豊臣家で急に縁組か、と疑問に思う方もいるだろうが、そもそも関ヶ原の戦いは豊臣家臣の石田三成と豊臣家臣の徳川家康が戦ったという内輪揉めのスタンスであり家康は豊臣家と敵対しているつもりはないのである)1605年には将軍職を息子の秀忠に譲る。その時の官位の偉い順が
徳川家康>豊臣秀頼>徳川秀忠
であった。つまり家康は将軍職を秀忠に譲ることで、豊臣家をないがしろにせず特別扱いしていたのである。

二条城の会見
1611年、後陽成天皇の譲位、それに伴う後水尾天皇の即位の執り行うため上洛した家康は秀頼に上洛を促す。淀君(秀頼の母、秀吉の側室)は反対するが、豊臣恩顧大名の説得により秀頼の上洛が実現し、家康と秀頼の会見が行われた。ここで家康の黒い逸話があるが、この会見は両者対等の会見でその場には北政所(秀吉の正室、豊臣恩顧大名にかなりの影響力をもつ)が出席しており、また家康は天皇の譲位・即位に関して上洛しており、豊臣家に何ら意図したものでないのが伺える。

方広寺・鐘銘事件
1596年に大地震で倒壊した方広寺の復興が1614年に完了した。その際に秀頼が奉納した鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれており、これに対し家康サイドは家康の名を使用しているとのクレームを入れた。はたしてこれは難癖なのか。当時の武家社会では姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた。豊臣方はその大事な名を承知の上で盛り込んでいるとの回答をしている。かなりの無礼なことをしており、当然説明を求めるのも道理である。また、豊臣方はこのころ牢人衆を集めたり、兵糧・武器の貯蓄を行い徳川方に対し明らかな挑発行為を行っている。これらの釈明をするため豊臣と徳川のいパイプ役片桐且元が家康の下に赴き、家康より徳川と豊臣の和解案として3条件の内1条件の履行を求める。
1,淀君を人質に出す
2,秀頼の国替え
3,秀頼自らの江戸への参勤
ちなみに全国の諸大名は3条件全て行っており、全て履行しなくていい点においても、家康は豊臣家に対し特別な配慮をしているのが伺える。
しかし、この案を持って帰った片桐に対し淀君は激怒する。身の危険を感じた片桐は大阪城を退去してしまう。豊臣家と徳川家のパイプ役の退去は外交拒絶と同意であり、家康も出兵を決意する。

合戦後
大阪冬の陣は和睦で決着する。しかし、豊臣方は合戦の準備を再度始める。それに対し、家康は
1,牢人衆の解散
2,秀頼の国替え
の2つ条件をのむことで豊臣家を存続させると条件を出している。豊臣家はこれに対し返事をせず、結果的に大阪夏の陣が始まる。大阪夏の陣で大阪城落城後、家康は秀頼対し高野山への追放の意向を示していたが、周囲は「将来に禍根を残す」として助命は許されなかった。

終わりに
このように家康は豊臣秀吉に対し大いにリスペクトしており、その息子の秀頼や豊臣家存続のため苦心した律義者だとわかる。現在、メディアでは徳川家康がよく腹黒に描かれるためイメージが先行してしまうが、そこだけを見て家康の全てを断じるのはもったいないことである。

参考資料
真田一族 相川司 新紀元社

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