Lilly
理沙と別れた。
それはクリスマス前の突然の出来事だった。
今年はじめて雪が降った12月23日、
僕は仕事終わりに理沙に呼び出された。
「明日がイブなんだから、明日にしようよ。」
と言っても今日がいいんだと理沙は聞かなかった。
同棲をしてから3年。
仕事終わりに外で待ち合わせるなんていつぶりだろう、なんて呑気に考えていた。
待ち合わせをしたレストランに到着したが、理沙はまだ来ていない。
ここは理沙とはじめてデートをしたレストランだ。イカスミパスタがおいしい。
「はじめてのデートでイカスミパスタを勧めるなんて馬鹿じゃない?」
と少し困った顔をしていた理沙が一口食べた瞬間に
「おいしい!!」と目を丸くして、あっという間にパスタを平らげたのを思い出して少し笑った。
それからたびたび、二人でこのレストランに訪れている。
レストランの入り口で理沙が周りを見渡している。
僕は手を振り、それに理沙が気付いた。
いつもは笑顔を見せてくれるはずなのに、その日に限って理沙の笑顔はなかった。
理沙は席に着くなりウェイターを呼び、
「イカスミパスタを二つ」とぶっきらぼうに言った。
「どうしたの?」
「大切な話があるの」
理沙の雰囲気から冗談ではない様子だったし、目が笑っていなかった。
ため息に似た小さな深呼吸をして理沙は話し始めた。
「別れてほしいの」
「えっ?」
喧嘩をしたわけでもなく、仲が悪くなったわけでもない。
別れるなんてそんな素振りは全くなかった。
突然の出来事に唖然として、何も話せないでいると
「好きな人ができたの」と理沙が呟いた。
自分の何が悪かったのか、考え直す余地はないのか、あらゆる言葉を使って食い下がってみたが、
「あなたには何の不満もない。今でも大切な存在よ。だけど…」に続く、「好きな人ができてこの気持ちは変えられない」と「ごめんなさい。」のふたつのフレーズを繰り返すだけで、理沙の中では「別れる」ことが既に決定事項だった。
それでも、食い下がる僕に耐え兼ねて、理沙は、罰が悪そうな苦しい顔をしながら3ヶ月前から浮気をしていた事を明かにした。
「イブはあなたとは過ごせない。」と言われた時、すべては既に終わっていた事を悟った。
いつの間にか冷たくなったイカスミパスタは、いつもより黒色に感じた。
理沙の荷物は、明日、僕が仕事に行っている間に運び出すらしい。
最後まで揉めたのは、リリーの事だった。
リリーは、つぶらな瞳をしたクリーム色の小型犬でポメラニアンという種類だ。
ライオンみたいなふさふさした毛を柴犬の様に短くしたマメ芝カットで人懐っこく活発で元気なお転婆娘と言ったところだ。
いちごのショートケーキとチキンが好物で、ケーキを買って帰る時はリリーの分を一人前用意しないと拗ねる。
理沙と一緒のベットに寝ていると焼きもちをやいたかの様に二人の間に入って来て丸まって眠る。
朝になると目覚まし代わりにリリーのキスで目覚める。
リリーのキスは森の匂いがした。
理沙はリリーも連れていきたいと言ったが、それだけは僕が拒否した。
浮気をして別れたいといきなり言い出した上に、愛犬のリリーも連れて行きたいという事自体がひどく乱暴に思えたし、第一、リリーの散歩や餌の用意は基本的に僕がやっていた。
何よりリリーは理沙よりも僕に懐いていたのだ。
思わず「ふざけんなよ。」と大きな声を出したので
理沙はリリーの事は諦めたが、たまにリリーに会いたいと言ってきた。
本来であれば、浮気してた相手にそれすらも嫌悪を感じるべきなのに、まだ理沙との別れが受け入れないことと理沙がリリーを妥協したことで承知してしまった。
次の日。家に帰ると理沙の荷物はひとつも残らずなくなっていた。
飲みかけのインスタントコーヒーも机においてある雑誌の位置も朝のまま変わっていないのに、
完成されたパズルのピースが抜けた落ちたように、そこにあるはずの理沙の家具や雑貨だけが姿を消した。
コートを着たまま冷たいフローリングに座り込んでしまった。
しばらくぼーとしているとリリーがいない事に気が付いた。
「リリー?」と僕が呼ぶと、背後に何か気配を感じた。
後ろを振り返ると、そこには見知らぬ女の子が立っていた。
ざっくり編みのニット帽にモスグリーンのチェックのハーフコート、膝上丈のオレンジのプリーツスカート、グレーのニーハイソックス。小柄で肩まで伸びた髪がほどよくパーマがかかっているかわいい女の子だ。
僕の目をまっすぐ見つめるきれいな瞳に吸い込まれそうだった。
「誰?」
「秘密」
そう言って、女の子はにっこり笑った。
その笑顔はどこかで会ったような懐かしい感じがした。
「いこ?」
女の子はフローリングに座り込んでいる僕に手を差し伸べてそう言った。
「どこへ?」
「今日はイブでしょ。私、街にいきたい。連れてって」
突然の奇妙な出来事に感傷的な気持ちは消え失せたがリリーがいない事の方が僕にとっては重要だった。
「リリーがいないんだ」
「理沙が連れてったわよ。明日、ちゃんと返すって!」
「なんで君が知ってるの?君はだれ?」
「秘密だってば、私のことは何も聞かないで。教えたらそこで終わりなの。それにそこに書いてあるじゃない。」
冷蔵庫の横に吊るしてあるホワイトボードに、3日前、僕が覚え書きで「佐藤さんに電話する」と書いた文字が消されて「リリーとお別れをさせて、明日にはちゃんと連れてくるから」と書いてあった。
それは紛れない理沙の字だった。
理沙もリリーもいないこの部屋は、雪が降る外の寒さよりも冷たい。一刻も早くこの部屋から出たいと思った。
「ねっ?だからいこ?」
心の中を見透かした様に女の子はもう一度、僕に手を差し伸べた。
僕は黙って女の子の手を掴んだ。
街は、もうすぐ日が落ちる薄明るい時間でクリスマスのイルミネーションで飾られたビルやお店の明かりがだんだんと浮き彫りになってくる。
行き交う人はカップルで溢れ、みんな幸せそうにみえた。
僕の隣にいる名前も知らない女の子は、街に来たのが初めての子供に様にクリスマスのイルミネーションの中をはしゃいでいた。
こっちの店にいき、あっちの店にいき僕は女の子について行くのがやっとだった。
「ここに入ろう」
と僕の腕を引っ張って強引に入っていったのが
リリーと出会ったペットショップだった。
ショッピングモールの1階にあるこのペットショップは
ペットショップとしては大きい方でペットの餌や道具はもちろん最新のおもちゃやトリミングコーナーまで併設している。
女の子は、一匹ごとに仕切られてショーウィンドウの様に並べられているわんちゃんをガラス越しに眺めながら
「あの子達もあなたみたいなご主人に出会えるといいわね」
と言った。
それはまるで僕とリリーを昔から知っているようだった。
犬のおもちゃコーナーに行くと、女の子は急にはしゃぎ出した。
骨の形をしたぬいぐるみや押すとピューピューと音がなるゴム製のボール。
ひとつひとつを手に取ってうれしそうに遊んでいる。
そして、すべてのおもちゃを吟味した後、イルカの形をしたぬいぐるみを手に取ってこう言った。
「ねぇ。これ買って?」
「えっ?君も犬を飼っているの?」
「そうじゃないけど、このぬいぐるみかわいいじゃない。今日はイブでしょ。クリスマスプレゼントに、ねっ?」
と上目使いでお願いをされた。
誰だかわからない女の子にプレゼントをするのは気が引けるがおねだりするのが指輪やネックレスではなく、1000円にも満たないイルカのぬいぐるみなのが可愛らしかった。
ここで拒否すれば男が廃る。
仮にもこんな気持ちのイブに外に連れ出してくれたのだからとお礼の気持ちを込めて、ぬいぐるみをプレゼントする事にした。
イルカのぬいぐるみを渡すと嬉しそうに「ありがとう」と言って、満面の笑みを浮かべた。
ペットショップを出ると僕達はケーキ屋さんに入った。
街で一番、美味しいと評判のケーキ屋さんの前を通ったときに「わたし、ケーキ大好き」と言ったからなのだが、丁度、夕食時だった。
「ケーキじゃなくてご飯にしよう」と言っても「3度の飯よりケーキが好き」と女の子が駄々をこねたので、ケーキを食べる事をした。
女の子はいちごのショートケーキ。僕はチーズケーキを頼んだ。
「ねぇ、理沙と別れたの?」
女の子はショートケーキを頬張りながら 毒も刺もない口調で僕に聞いた。
「ああ、昨日ふられた。そもそもなんで君が理沙を知っているの?理沙の友達?」
「それは聞かない約束よ。」
「変なやつ。」
「人間って大変よね。好きになったり別れたり。悲しみが忘れられないから次に進めない」
「そうだな。しばらくは前に進めそうにない。」
「私はね、今日あった出来事を明日まで覚えてられないの。昨日あったこともよく覚えていないわ。ただ、楽しかったとか、悲しかったとか、この人は素敵な人だとか、覚えているのはそんな感情だけ。」
「病気なの?」
「わたしにとっては普通のことよ。だから、今ここにあるこの瞬間を大切に生きてるの。あなたとショートケーキを食べた事は忘れてしまうけど、あなたといて幸せな気持ちは忘れないわ」
「辛くないの?」
「辛くなんてないわ。だって今しか生きていないから。過去も未来もここにはないもの。あなたは覚えているから辛いんでしょ?」
「そう簡単に忘れられるものじゃない」
理沙と過ごした時間は僕にとって、とても大切な時間だった。
いつも大切なことは取り返しがつかなくなってから気付くのだ。
どうして僕は3ヶ月もの間、理沙の変化に気が付かなかったんだろう。
どうして理沙と過ごす時間がこれからも続くと確信していたんだろう。
「今しか生きれない」という言葉が僕の心に刺さった。
「ねぇ!お別れパーティーをしてあげる。こういう時は無理矢理にでもパーとやった方がいいのよ。」
ケーキを食べ終わると女の子はそう言った。
僕達はスーパーに行って、シャンパンにチキン、フルーツとお惣菜を買い込んで家に戻った。
シャンパンで乾杯をして、チキンを食べて、ジェンガをして、お笑いのビデオを見た。
最悪のクリスマスイブ。名前も知らない女の子と過ごす時間。
それは不思議と楽しい時間だった。
お笑いのビデオを見ながら、女の子はりんごを剥いた。
「食べる?」
りんごに爪楊枝を刺して僕に渡す。
そういえば、理沙もりんごが好きだった。
夕食が終わって洗い物を済ませると理沙は習慣の様にりんごを剥き始める。
二人でテレビを見ながらりんごを食べるのが、僕達の過ごし方だった。
りんごを一口かじると突然、涙が流れた。酸味のある甘さが理沙との時間を思い出させる。
もう理沙はいない。リリーもいない。
僕は見知らぬ女の子といったい何をしているのだろう。
そう思ったらダムが決壊したかのように涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
僕の涙を見た女の子は
「これからは私がそばにいるから」
そう言って僕にキスをした。女の子のキスは森の匂いがした。
それからは覚えていない。そのまま寝てしまったんだろう。
朝になるといつも通りリリーのキスで目覚めた。昨日は飲み過ぎたのかひどく頭が痛い。
ベットから起き上がると女の子は姿を消して、パーティーで散らかした部屋は元通りなっていた。
飲みかけのインスタントコーヒーも机の上においてある雑誌の位置も昨日のままだ。
冷蔵庫の横のホワイトボートには、3日前、僕が書いた「佐藤さんに電話する」と言う文字がそのまま残っている。
リリーは昨日買ったイルカのぬいぐるみで楽しそうに遊んでいる。