吉野家の「生娘」発言から、消費者・企業・教育者が学ぶこと
今回は、吉野家の常務取締役の方が、自社のマーケティング戦略を「生娘をシャブ漬け戦略」と発言した件について、書きたいと思います。
この発言については、多くの専門家の方や一般の方が、メディアやSNSでコメントをされていますので、同じことを書くつもりはありません。
それらではあまり触れられてはいないけど、僕はこう思います、ということに絞って書きたいと思います。
問題を深堀するという意味ではクリティカルシンキングの実践であり、そもそもマーケティングとは何なのか、ということの振り返りでもあります。
何が起きたのか。
時系列で整理します。
2022年4月16日、早稲田大学 履修証明プログラム「デジタル時代のマーケティング総合講座」の講義に、𠮷野家の伊東正明氏が講師として登壇しました。
当時、伊藤正明氏は、株式会社吉野家ホールディングス 執行役員と、株式会社吉野家 常務取締役 企画本部長を務められていました。
同日、同講義を受講された方が、以下の内容をご自身のSNSに投稿されました。
2022年4月18日、早稲田大学が、同講師に対して厳重に注意勧告をするとともに、同プログラムの講師から降板してもらうことを発表しました。
2022年4月19日、株式会社吉野家ホールディングスが、伊東正明氏を同社 執行役員と、株式会社吉野家 常務取締役から解任することを発表しました。
まとめると、𠮷野家の伊藤正明氏の発言は「人権・ジェンダー問題の観点から到底許容することの出来ない」ものであった。同氏は教育機関の講師、企業の執行役員や取締役には相応しくないため、その任から外された。ということです。
この件を受けての多くの方々の反応は、同氏の発言は「けしからん」、「時代錯誤だ」、「許されない」といったものであったと思います。
マーケティングの歴史から見る吉野家の現在地。
ここで、今回の発言がなされた講座が扱うテーマ「マーケティング」とは何かをおさらいしておきたいと思います。
マーケティングとは何か、という定義は、それだけで1冊の本が書けるほど奥深いものです。
ここでは、今回の議論との親和性が高い、1つの定義を挙げておきます。
この定義に従うと、マーケティングとは顧客を創造する手段としての機能である、ということになります。
ここできちんと認識しておかなければならないのは、マーケティングとは、企業が売上を拡大したり利益を拡大したりするために、自社の製品やサービスを買ってくれる顧客をいかに創造するか、ということを考え、実践することを指している、ということです。
また、マーケティングとイノベーションがペアになっているということは、魅力的な製品やサービスを創造することはイノベーションの範疇であり、マーケティングは、製品やサービスの魅力以外の要素で、それを買ってくれる顧客を創造する、ということを指しているとも言えます。
例えば、それは価格設定であったり、プロモーションの方法であったり、流通のさせ方であったりします。
(マーケティング・ミックスのフレームワークでは、ここでいうマーケティングとイノベーションは4Pという概念で統合されました。)
極端な話をすると、大して魅力的ではない製品やサービスであっても、マーケティングを駆使することで、それを買ってくれる顧客を創造できる可能性があります。
嫌らしい表現をすれば、企業にとっての顧客は、自社の製品やサービスを買ってくれさえすればよい存在であり、マーケティングを駆使して、いかに刺激し取引をするか、ということを考える対象です。
価格設定やプロモーションの手法には、様々な心理学やミクロ経済学の理論が取り入れられていますが、それが意味していることは、法に触れない範囲で顧客を騙して、自社の製品やサービスを買ってもらう、ということにほかなりません。
特定商取引法、景品表示法、消費者契約法などが整備されているのは、法がなければその歯止めがかからない現実を反映していると思います。
さて、マーケティングとはこうも汚いものなのか、と心配になってきます。
現実問題としてマーケティングとはこうも汚いものではありますが、一方で、このようなマーケティングを行っていては顧客の信頼を獲得できないし、長続きもしない、という限界が見え始めています。
そこで、顧客ときちんと対話をする。顧客と一緒に製品やサービスを創って育てる。顧客に自社の製品やサービスのファンになってもらう。という取り組みを実践して、実際に成果を上げる企業が登場し始めました。
それらが新しいマーケティングとして注目され始めています。
流行りの表現で、「マーケティング3.0」、「マーケティング4.0」のような言い方をされることもあります。
では、マーケティングの歴史から見た吉野家の現在地はどこでしょうか。
あえて書くまでもありませんが、𠮷野家のマーケティングは、マーケティング3.0でも、マーケティング4.0でもなく、古典的なマーケティングそのものなのです。
消費者の学び: 騙されない知識を身に付ける。
僕は、消費者として吉野家の「生娘」発言を吉野家に固有のもの、伊東正明氏に固有のものとして、彼らを非難し、彼を役職から解くだけで安心してはいけないと思います。
いまだに多くの企業は古典的なマーケティングを行っており、いかに消費者を騙して顧客を創造するか、ということに注力している現実を知る必要があります。
今回は、たまたまその古典的なマーケティングをしている企業の本音がポロリと出てしまったというだけであり、その本音の根っこにある本質的な問題は何も改善していません。
吉野家としても、今回の件を受けて、古典的なマーケティングから新しいマーケティングに移行することにした、というわけではないと思います。
例えば、商品やサービスの内容は何も変わっていないのに、新しいパッケージが登場したり新しいキャンペーンが始まったりしたら、なぜか買いたくなった。
もし、そんなことがあったとしたら、企業のマーケティングの餌食になっているときかも知れません。
消費者として、古典的なマーケティングをしている企業を見抜き、彼らに騙されないための知識を身に付けましょう。
企業の学び: 時代遅れであることを認識する。
吉野家の「生娘」発言を受けて、自社の引き締めを図った企業は多いと思います。
そして、その「引き締め」の多くは、パブリックに情報発信をする際の発言内容や表現方法に対するものだったのではないかと思います。
「田舎から出てきた」「生娘」を「シャブ漬け」にする。
今回は、これらの言葉の持つ差別的、犯罪的なニュアンスが問題視されたわけですが、これらの言葉が使われた背景には、顧客を騙す相手として見ている、という古典的なマーケティングの姿勢や価値観が存在しています。
つまり、そのような姿勢や価値観で古典的なマーケティングをしている限りは、その本音がポロリと出てしまうという可能性は排除できません。
いくら発言内容や表現方法に気を付けましょう、という通達を出したところで、それは本音と建前を使い分けなさい、と言っているだけのことでしかないからです。
僕は、𠮷野家の「生娘」発言を受けて企業が行うべきことは、自社のマーケティングが古典的なマーケティングのまま取り残されていないかを点検することではないか思います。
つまり、顧客を騙す相手として見ていないかを点検するということです。
顧客ときちんと対話をする。顧客と一緒に製品やサービスを創って育てる。顧客に自社の製品やサービスのファンになってもらう。という姿勢や価値観でマーケティングを行っていれば、顧客を騙す相手として見るということはありません。
そうであるならば、発言内容や表現方法に気を付けましょう、という不毛な通達を出す必要もありません。
企業として、時代遅れなマーケティングのまま取り残されていないかを確認し、もしそうであれば、自社は時代遅れであることを認識しましょう。
そして、そう認識したのであれば、マーケティング3.0、マーケティング4.0の世界観を目指すための行動をとりましょう。
教育者の学び: 反面教師を使いこなす。
吉野家の「生娘」発言を受けて、早稲田大学は、早々に伊藤正明氏に同プログラムの講師から降板してもらう判断をしました。
しかし、教育という観点で見たときに、𠮷野家を古典的なマーケティングを継続している企業の1つ、伊藤正明氏を古典的なマーケターの1人として位置付けることもできたのではないかと思います。
その場合のプログラムの進め方は、次のようなものになります。
先ず「マーケティングとは本質的にこういうものです。」、「歴史的にはこのような変遷をしています。」という講義を行う。
その上で「このプログラムでは、新旧様々なマーケティングを実践している企業を紹介します。受講者の皆さんはマーケターとしてそれをどう思うか、自ら考えてください。」と促す。
売上は伸びると思いますか? 伸びないと思いますか?
消費者として好意的に捉えますか? 捉えませんか?
社内的な理解を得られると思いますか? 得られないと思いますか?
倫理的な問題はあると思いますか? ないと思いますか?
製品やサービスの特性にマッチしますか? マッチしませんか?
メリットは何ですか? デメリットは何ですか?
あなたは模倣したいですか? 模倣したくないですか?
なぜそう思うのですか?
それを踏まえて、受講者同士でディスカッションを行い、自身が気付かなった他者の気付きを取り入れる。
自分なりの答えを作り上げて持ち帰る。
現実や事実をありのままに受け止めて、好き・嫌い、快適・不快という感情を切り離して、一歩引いた一段高いところから、その対象について自らの考えを整理する。
それが学習であり、その機会を提供するが教育だと思います。
そして、その現実や事実は、ある人にとっては教師となることも、ある人にとっては反面教師となることもあるでしょう。
今回のプログラムには、そのような意図があったのか、なかったのか。
そのような意図があったとして、事前に受講者にイントロダクションが行われていたのか、いなかったのか。
僕は、そこに問題があるのではないかと思います。
教育者として、反面教師となり得る事例も上手く使いこなせるようになりましょう。
今回はここまでです。ありがとうございました。