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[ 美術 ]浮世絵ジャポニスム 欧州にあたえた影響とは?

#蔦屋重三郎 #浮世絵
#歌麿 #写楽 #大首絵  

私のベッドの横、そこにはモネの『散歩・日傘をさ指す女』(模写)が飾ってある。朝、目覚めたときに見るのは、いつもこの絵。逆光のなか草原の丘のうえに立ち、日傘をさす妻カミーユ。その後ろからこちらを見ている長男のジャン。天空の雲のなかに浮かんでいるように見え、なんとも微笑ましい。

たぶん19世紀後半、仏国印象派の画家たちも部屋のなかに浮世絵を飾っていたと思う。このモネにしろ、マネにしろ、ゴッホにしたって、きっとそうしていたはずだ。それほど日本の浮世絵には心酔していたようだ。彼らにとってこの日本人たちの作品は絵の手本にもなっていたと思える。

*浮世絵、その歴史?
江戸期に生まれたポップカルチャー(大衆文化)だった。社会には自由な空気が広がり、娯楽を享受していた時代だった言える。演劇・歌舞伎に熱中する人々が蔓延していたのだ。いまの時代の「推し活」にも近いものがあったと想像できる。好きなタレントの写真を集めるように、役者絵(浮世絵)を買い求めた。

初めは、黒一色の水墨画に近いものだった。この当時、俳諧(はいかい)という複数人で短歌を読んでいく遊戯性のある連歌も、人々に楽しみを与えていたのだ。1765年ころ、この俳諧師のあいだで多色摺りの絵暦(えこよみ :カレンダー)が流行る。この多色摺りに目をつけたのが、鈴木晴信という浮世絵師。この技術を浮世絵に持ちこんだのだ。

浮世絵の多色摺りである。はじめは、数種類の色摺りだったが、しまいには8色摺りとなる。絵師が8色の絵の具をつかい絵を描く。それを色ごとに8枚の板に、彫師が刀を入れていき、最後に摺師が、これも色ごとに紙に摺っていくというもの。この多色摺りの浮世絵を、人々は錦絵(にしきえ)呼んだ。

*浮世絵の版元とは!
現在の出版社のことを、江戸期は版元(はんもと)と呼んだ。1600年代に京都で生まれた版元は、江戸中期になると、大阪や江戸に進出する。江戸の版元は上方の支店だったのだが、独立して自分たちで独自の本を出版するようになった。上方では、江戸のものを馬鹿にしていたのだが、江戸が100万人をこす大都市となることで、売りあげが増え、もう馬鹿にしてはいられなくなっていく。

1790年ともなると、江戸の版元(地本問屋)は19軒となったという。お互いに権利を守りあうルールもつくる。無許可での複製分は作らない!少し変えただけの本も禁止するといったところだった。この版元のなかでも、急激に力をつけたのが蔦屋重三郎。さまざまなアイディアを考えだし急成長していく。

この蔦屋重三郎、出版会社の社長ということにとどまらない。いわばプロデューサーのような人物だった。歌舞伎役者に人気が集まっていると思えば、人気役者の浮世絵師に描かせる。しかも、顔の表情をアップにした上半身のみの絵、大首絵(おおくびえ)も蔦屋のアイディアだった。

さらに江戸期は、遊郭も一大娯楽場だった。蔦屋重三郎は、これにも目をつけ、遊女の錦絵を浮世絵師に描かせている。もちろんこれも人々はこぞって買い求め大ヒットとなった。来年のNHK大河ドラマは、この蔦屋重三郎を主題にしたようだ。この辺りのことを詳しく描いてくれると思う。

*蔦屋重三郎、見出した浮世絵市!
浮世絵の黄金期ともいえる天明寛政期に二大ビックスターを見出している。1人は喜多川歌麿。もう1人が東洲斎写楽。歌麿の描いたのは美人画。心の内面もみごとに描写した大首絵は品格のある作品となっている。もともと上半身を描いた大首絵は、役者の似顔絵を描くものだったが、歌麿はこの手法を美人画に取りこんだ。

東洲斎写楽、謎の人物である。わずか10ヵ月で消え去った浮世絵師だったが、その間に144もの作品を残している。日本人なら、誰もが一度は目にしているはず。人物を誇張し、美醜を超えての人間の本質にせまる作品がおおい。いまだ日本人も西洋人にも人気があり、研究対象となっている。

*まとめ
日本のカルチャーは、いまだに世界で大人気となっている。しかし、その先駆けは江戸期にあったと言えるだろう。たまたま輸出品陶磁器の緩衝材として紙が使われていたのだが、そのなかにこの浮世絵も混じっていたのが発端となる。たぶんこれを見た西洋人はビックリしたことだろう。こんな絵を日本人が描いていたことを…。

大衆の娯楽から生まれた文化。それが浮世絵だ。このあと浮世絵は風景画となっていく。これも旅先の風景や観光地案内のひとつだったとも言える。それほど、日本人は旅や観光などを謳歌していたことがわかる。江戸期の自由が生んだ文化、それが花ひらいたということだろう。

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