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[脚本家]その第一人者『橋本忍』 数奇な運命からシナリオライターに!

#橋本忍 #黒澤明 #伊丹万作
#脚本家 #シナリオライター

どんな人物でも、親からの影響は受けているものだ。たとえそれが反面教師であっても…。父親は兵庫の田舎で小料理屋をやる傍ら、芝居興行などもやっていたという。興行とは、観客をあつめ料金をとって、演劇や音曲を楽しませる職業。だが、これは当たればいいが、外せば多額の出費だけが残ってしまう。いわば博打ともいうべき仕事だ。

そんな父親の姿を、後ろから見ていたのだろう。そして、演劇というものに魅了された橋本少年がそこにはいた。初めはまともな職業に就く。それは国鉄の職員。しかし、20歳で軍隊に召集される。入隊先は鳥取歩兵40連隊、階級は1等兵だった。

ところがほどなく健康診断で、悪性の結核が見つかる。すぐに兵役が永久免除となり、岡山県の療養所に入った。ここでやることとしたら、せいぜい読書である。たまたま置いてあった「日本映画」という本に目が止まる。そこにはいくつかの脚本が載っていたのだ。読んでみると、どれも簡単な話しばかり。これなら自分にもできる!そう思ったようだった。療養仲間に、「日本で一番の脚本家は誰?」の質問に、伊丹万作という答えが返ってきたと言う。

数年の療養後、郷里に帰ってから、シナリオ「山と兵隊」を書きあげる。そして、全く面識のない伊丹万作の元へ送りつけた。普通なら読んでくれるはずもない!しかし数日後にその伊丹から、シナリオが送り返されてきたのだ。なかを見ると、ぎっしりと添削されていた。

*結核に冒された伊丹万作!
伊丹万作本人、かなりの結核におかされ重症だったようだ。そのため、療養を続けていたのだが、それが橋本からの郵便物に目を通した理由だった。もう仕事が満足にできる状態ではなかったと言える。伊丹万作は弟子はとっていなかったが、結果として橋本忍が唯一の教え子になったようだ。

伊丹と橋本との関係は、4年ほどで終わりを迎える。1946年に伊丹万作は46歳でその生涯を閉じた。生前の伊丹との会話をその著作『複眼の映像  私と黒澤明』に、橋本忍はのこしている。

伊丹は、オリジナルシナリオばかり書いている橋本に尋ねたと言う。「原作物に興味がないのか?」と。すると橋本、興味があると答えた。伊丹はさらに質問する。「原作物を書くにはどんな心構えが必要と思うか?」。

橋本忍は次のように答えた。
「牛が1頭いるのです。柵のある牧場みたいなところなの中だから、逃げ出せないんです。私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も……。あちこち場所を変え、牛を見るんです。それで急所がわかると……鈍器のようなもので、一撃で殺してしまう。……そして頸動脈を切り、流れだす血をバケツで受け、それを持ち帰って仕事をするんです」と。

それを聞いた伊丹は「君のいう通りかも。……いや、そうした思い切った方法が手っ取り早いし、成功率も高いかもしれない。ライターが原作物を手につけるにはね。……しかし、橋本くん」
「この世には、殺したりせず、一緒に心中しなければいけない原作物もあるんだよ」と。

*橋本忍に新たな知遇!
伊丹万作が亡くなり、その1周忌に訪れた橋本忍。伊丹の妻より、佐伯清監督の紹介をうける。佐伯からいいシナリオが書けたら見せて欲しいという話があった。橋本は、サラリーマンの仕事の傍ら、芥川龍之介の「薮の中」を脚色。これを佐伯に渡した。

佐伯の監督仲間に、当時売り出し中の黒澤明がいた。黒澤は一読するや、橋本忍を呼び出したという。そして「これを映画化しようと思うが、この脚本では40分で終わってしまう。何とか増やすことはできないか?」と。橋本忍は、とっさに芥川龍之介の別作品「羅生門」、これをくっつけましょう!と提案した。

これで出来あがったのが、映画「羅生門」である。この作品、日本では評判はさほど良くなかったが、海外では絶賛だった。なんとベネチア国際映画祭で、いきなりグランプリ「金獅子賞」を受賞してしまう。これで世間の注目を一気に浴びることとなる。

*三人での脚本作り!
黒澤明としては、オリジナルな侍映画つくりを目指した。ここで問題になったのが、論理構成。黒澤と橋本、そのアイデアでは抜きん出たものがあったが、どうも本筋から外れてしまうことも多々あった。これを修正してくれる人物として、黒澤は小國英雄を加えることにした。

小國は、武者小路実篤に傾倒し、交流も持っていた文学青年だった。この3人で、「七人の侍」と「生きる」の脚本も仕あげた。このチームでの仕事で、橋本忍もいろんなことを学んだという。その後の数々の作品に与えた影響は大きい。

まとめ
黒澤明は、橋本忍にたいして「君はバクチ打ちだ」と評したようだ。これにたいし橋本は「脚本には映画が当たるか!がかかっている。博打であってしかるべき」。
さらに「もっと思い切ったバクチ打ちになろうと思った!」と語っている。ちなみに、橋本の趣味は、競輪だったという。

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