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世界のマエストロ、小澤征爾。その人間力をしめす数々のエピソードを紹介する!

#小澤征爾 #追悼  #バーンスタイン  #カラヤン #斉藤秀雄  
まず、その名前の「征爾」。日本が、中国東北部に満州国をつくったのが1932年だが、小澤征爾は、その三年後に、この国で生まれている。父親は、歯科医師だった。

この父親、この満州国で政治活動にのめり込んだようだ。五族協和、つまりこの地域に住むすべての人たちとの共存共栄を旗印にした国づくり。そんな政治団体の創立委員になった人物である。この活動をつうじ、満州国を作りあげたニ人の軍人、板垣征四郎と石原寛爾から、その名をそれぞれ一字とって、生まれた三番目の息子に征爾と名づけた。

小澤征爾、六歳のとき一家は父を残し日本に戻った。東京の立川にある小学校にはいった小澤征爾は、長兄からピアノとアコーディオンを習う。この家族の音楽的才能は、どうも母方の血筋から来ているようだ。

母のさくら、そのイトコの子に後に恩師となる斉藤秀雄がいた。小澤征爾も兄も、音楽の素養があったところをみると、母の影響が大きいようだ。

もともとは小澤征爾、ピアニストを目指していた。しかし、中学のラグビー部で、右手人差指を骨折。大ケガだったため、断念したという。しかし、これが指揮者への道を開いたのだから、人生はわからない。

16歳で高校へすすみ、斉藤秀雄の教室にはいる。翌年設立された、桐朋女子校の音楽部に入学。このとき、山本直純や秋山和慶の学友になった。ニ年後の1955年に、桐朋短大へとすすみ、1957年夏に卒業。このあと斉藤秀雄の紹介で、群馬交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団の仕事をうける。

音楽をやるなら、外国へいって勉強するしかない!と決断。フランス政府が金をだして留学するという試験を受けたが、不合格となる。しかし、ここで小澤征爾は自身の人間力によって救われる。友人らが、ほうぼうを駆けめぐって金を集めてくれたのだ…。

さらに小澤征爾本人も、有力企業に出向き、スポンサーになってもらった。その一つが、スバル。このとき、スバルはラビットスクーターのメーカーだった。小澤征爾は、このスバルからスクーターの提供をうける。ただし、乗るときは「日の丸をつけて、ギターを背負う」という条件のもとで…。小澤征爾は、このスクーターとともに渡欧した。

*行動力の小澤征爾
たまたま目にしたコンクールのポスター。それはブゾンサン国際指揮コンクールだった。すでに締め切りは過ぎている。ここで、小澤征爾は、持ち前の行動力をだす。アメリカ大使館にいき、直訴したのだ。主催者に「どうしても、これに出たい!」と訴えた。交渉の末、なんと出場許可を取りつける。

驚くべきことに、このコンクールで小澤征爾はいきなり優勝してしまう。小澤征爾の飛躍は、ここから始まったと言っていい。まず、審査員だった巨匠指揮者シャルル・ミンシュの推薦で、タングルウッド音楽祭に参加。ボストン交響楽団の指揮をすることになる。

ニ年後の1961年バーンスタイン率いる、ニューヨーク、フィルハーモニックの副指揮者となった。

さらに、カラヤンの後継者を選ぶコンクールにも合格する。嫌々ながらも教わった斉藤秀雄の教育が花開いたカタチだ。この20世紀後期を代表するニ人の巨匠。彼らの知遇を得たというのは、小澤征爾おいて他にない快挙といえるだろう。

エピソード⑴
最初の恩師、斉藤秀雄を反面教師としてしていたようだ。とにかく人懐っこい性格。弟子の佐渡裕によると、あるヨーロッパの演奏会場のまえで、小澤征爾が店番をしていたという。店主が、トイレに行く間、見ていてくれと言われたようだ。

エピソード⑵
2015年、小澤征爾と活動を共にしたティンパニー奏者・山口浩一との話し。山口が亡くなる直前のこと、小澤征爾は彼を見舞ったという。このとき山口は、ほとんど意識がなかったようだ。もう口も聞けないほどだったが、小澤征爾が声をかけると、目を開き、言葉まで発したという。

エピソード⑶
指揮棒を使わないというスタイル!ウィーンでのコンサートのこと、指揮棒を家に忘れてきていた。もう取りにいく、そんな時間は無い。仕方なく、指揮棒なしで臨むことに…。ところが、学団員は何食わぬ顔だったようだ。これに気を良くして、それ以後小澤征爾はこのスタイルになったという。

エピソード⑷
誰とでもハグし、会話を交わす。小澤征爾はいつも陽気だ。パーティーなどでは、いつも笑顔で、上機嫌と言っていい。巨匠のイメージは全くない。それでいて、コンサートのときは、奏者全員が小澤征爾の力に引き込まれて、実力以上の力をだす。

まとめ
「人たらし」という言葉がある。以前は「人を騙す」といった悪い意味があった。そのような使い方が本来の形だ。ところが、今では「多くの人に好かれる」「トリコにしてしまう」という意味で使われている。この「人たらし」は、まさに小澤征爾の代名詞ともいえるだろう。その人間力で、百名をこす楽団を一つにし、最高の音楽を奏でる。そんな小澤征爾は、世界のマエストロ『OZAWA』だ。

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