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近現代史、太平洋戦争『沖縄戦』について深掘りしていく!

#太平洋戦争 #沖縄戦 #近現代史 #沖縄の歴史
友人や知人のなかに、沖縄出身の人がいる。そのほとんどが女性で、日本人男性と結婚した人たち。この沖縄戦について、聞いてみたいとも思うが、いつも口に出せない自分がいる。多くの住民を巻き込んだ沖縄戦。なぜこのようなことになったか!もう一度調べ直してみた。

1945年3月には「硫黄島」が陥落。そして日本本土の主要都市への空襲が本格化する。日本人誰の目から見ても、敗北は見えていた。しかし、戦争を止めると言いだす閣僚軍人はいなかったようだ。

昭和天皇の「独白録」に、以下の言葉がある。「 (元首相で貴族)近衛文麿が来て、極端な悲観論を言う。戦いはすぐにやめたほうがいい!と」。この時、昭和天皇はこの申し出を拒否したと書いている。続けて「どこかで、連合軍に打撃を与え、その戦果を持って和平に持ち込む」と言うのだ。

これは当時の閣僚や軍関係者がもっていた共通の認識だった。つまり『一撃講和』。もう一回だけ勝って、有利な状況をつくり、日本の主張を少しでも飲ませる。ここに賭けていたということだ。

また、この辺りからソビエトを仲介でした和平工作も始まっている。外務大臣・重光葵(シゲミツマモル)に対し、陸軍海軍よりソビエトと交渉するよう話しが出た。遅きに失したと感じていた重光。自分としては米国英国との直接交渉をしたいと思っていたようだが、軍部が納得しない。仕方なく、ソビエトとの話しを進めていたようだ。

沖縄戦には、時間稼ぎという意味合いがあった。しかしこれは日本側の都合のよい「思い込み」。根拠などどこにもない勝手な期待だった。心理学で言うところの『確証バイアス』。先入観や偏見を優先して、事実を理解できないということだ。

沖縄戦は、3月26日の慶良間諸島の戦いから始まる。4月1日には、米軍は沖縄本島に上陸した。中西部の読谷村(ヨミタン)から北谷村(チャタン)までの海岸が上陸地点だった。

米軍は、日本軍の強烈な反撃を想定していたようだが、全くそれはなかった。驚くほど静かだったとされる。

これは、大本営からの指示だった。もし戦えば、一週間として持ちこたえることはできなかっただろう。兵力、米軍55万に対し日本軍10万。艦船は、米軍1500対日本70。その他、装備や弾薬燃料等20分の1あるかないかだった。

日米双方の熾烈な戦闘が始まるが、およそ2ヶ月後の5月下旬には、日本主力部隊の8割(1 6万人)が壊滅。残存兵力は4万となっていた。沖縄住民の悲劇は、ここから始まる。

軍部は、沖縄住民に軍とともに行動をとるよう命じた。男子は13歳以上兵士に。女子は15歳で看護要員とする。だが、兵力火力に勝る米軍は次々に襲ってきた。当然、勝てるはずもなく、どんどん追い詰められてゆく。

6月23日、糸満において、日本軍司令官・牛島満と参謀長・長勇が自決する。3ヶ月にわたる戦いは幕を引いた。多くの住民が犠牲になっている。所詮勝ち目のない無理な戦いだった。

多くの沖縄人も、日本的教育「皇国思想」に染まっていたようだ。戦争から70年過ぎて現在も健在な「戦争体験者たち」。未だに、この戦争に自ら志願したと言う。

しかし、現実は違っていたと言っていい。軍部は勝ち目のない戦い住民を巻き込んだのだ。沖縄では、軍と行動を共にしなかった人たちもいる。彼らはほぼ全員が無事だった。軍は、負けることをわかっていながら、住民を連れ回したといってイイだろう。

近年、沖縄鉄道での弾薬大爆発事故という報道があった。これは沖縄戦の前年1944年12月11日に起きた大事故だったのだが、当時は完全に内密に処理されたという。沖縄にあった弾薬数百トンも失ったというから驚くべき量だった。参謀長はこの時「戦力が半減した」と語っている。

沖縄戦の後、米軍は九州上陸を目指していた。もしこれが実現したなら、九州でも沖縄と同じようなことが起きたに違いない。8月8日にソビエト対日参戦。8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下を持って、日本は連合軍にポツダム宣言を受けいれ、無条件降伏となった。

まとめ
沖縄では、いまだに沖縄戦の影を引きずっている。米軍基地がずば抜けて多いところからだ。日本国土面積の0.6%。しかし米軍基地は70%にもなる。

おおく日本人は「基地のおかげ」で沖縄経済が成り立っていると言う。だが、最近の調査では県民総所得に占める割合は5%に過ぎない。いまだに多くの犠牲を払っている沖縄。日本人全員が、もっと目を向けるべきだろうと思う。

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