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28才でちった夭折の洋画家、青木繁の生き様!そして福田たねとの出会いと別離!

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私と青木繁との出会いは、中学生のとき。美術の教科書に青木繁の作品『海の幸』を見たことだった。あまりに力強く、その迫力に目を奪われ、驚愕したものだ。

後年、この絵は青木繁19歳の時のものであることに再度おどろく。そして青木が28歳でこの世を去っていることにも愕然とした。神童、モーツアルトも35歳の若さで亡くなっている。天才は、短命なのか!そんな考えが頭をよぎった。

青木繁は、16歳のときには既に結核に冒されていたようだ。文才もあった青木繁は、絵画にも長け、今でいう高校1年生のときには九州久留米から東京に出ている。そして、画塾『不同舎』に入った。その翌年には東京美術学校に入学。当時、画壇の重鎮、黒田清輝から指導をうける。

自信家で、破天荒でもあった青木繁。自分の体力も顧みず、度々友人と小旅行にも出かけていた。もちろんスケッチのためであり、画題の思索でもあった。実家が没落士族ということもあり、かなりの貧乏だったようだ。ほぼすべての旅は、青木にとって無一文での行動。まともに栄養ある食についたとは思えない。しかし、ほとばしる才能が、彼をして見知らぬ土地へ向かわせた。

仲がよかった3人。青木繁と坂本繁ニ郎、そして森田恒友は、1904年千葉県房総の旅を計画する。そこに、1人の女性19歳福田なねが同行することに…。4人は、千葉房総半島の先端、館山に向かう。どう交渉したのかはわからないが、網元の家に40日間も滞在することになった。

福田たねも、画才を地元・栃木で認められ、東京にでた身。家は呉服屋でかなり裕福だったようだ。そんな福田たねと、青木繁はこの館山で結ばれる。その最中に描いたのが、重要文化財にもなった『海の幸』だ。青木繁にとって、代表作となったこの作品は、こうして生まれた。

この翌年の1905年、福田たねは、青木との子である長男・幸彦をうむ。『海の幸』で世間から賞賛された青木繁。だが、これという収入はなく、生活にも窮していた。結局、福田たねの実家に世話になるカタチで、生活と画業を行うことになる。

このときの青木繁は、人生で一番日当たりの良い生活をしていたようだ。長男を抱く写真が残っているが、家族にも恵まれ、絵筆も進んでいたと思われる。

そうしてできた作品が『わだつみいろこの宮』である。こちらも、青木繁の代表作といえる作品。だが、ここから青木繁に暗雲が立ちこめる。

東京府勧業博覧会に出品すると言い残し、栃木の家をでた青木繁。それっきり栃木の福田たねの元へは戻らなかった。福田家の人々は、青木繁に敬意をはらい、福田たねも身の回りの世話をし、青木に尽くしていたのだが…。全くの裏切り行為となる。

このとき、福田たねは青木を追って上京したようだ。後年、福田の実弟が語っていたと言う。ここで、福田と青木の間で何かあったか!と思われる。しかも、出品作『わだつみのいろこの宮』は、三等賞末席という扱いとなった。さらに不幸が重なる。久留米の父が急死することに…。急ぎ帰省する青木繁。この後、青木はなぜか九州から一歩も外には出なかった。

どうも、福田たねが青木繁を見限ったという説がある。東京府勧業博での青木への評価は、審査員の黒田清輝への恨みつらみとして、黒田の批判記事を、青木に書かせてしまう。福田たねに対しても、悪態をついていたことは、青木繁の精神が疲弊したことを物語っている。

この後、青木繁は中央画壇の展覧会に作品をだすが、ことごとく落選。黒田清輝からの不興を買ったことの意味は大きかった。青木繁は、知人を頼りに九州の中をさまよう。結果、さらに体を害し、吐血。帰らぬ人となった、享年28。

死の原因が、結核としても、江戸期に比べ、このとき百分の1まで死者数は減少していた。栄養も足りず、歩きまわるという性癖が寿命を縮めたようだ。

また、洋画界の第一人者である黒田清輝への対応もまずかった。黒田清輝は、青木繁をかなり評価していたからだ。『海の幸』をだれよりも高く評価したのも黒田清輝。あまりに自信が過ぎた!とも言える。

さらに、福田家の恩情にむくいなかったのも、青木の死を早めだと言える。栃木で養生中心の生き方をしていれば、少なくともあと20年は描き続けただろう。いくつもの試練を自ら招いたともいえるのではないだろうか。

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