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鴨長明『方丈記』を読みとく!この随筆の意味するところとは…?

#3大随筆 #随筆 #鴨長明
#方丈記   #エッセイ

日本人であるなら、誰もが日本三大随筆を、暗記させられたと思う。「春はあけぼの…」の枕草子。「徒然なるままに…」の徒然草。そして「行川の流れは絶えずして…」の方丈記。 今回は、この方丈記について見ていくこととする。

その前に…。これらの作者は、みな「長命」だったことには驚かされる。清少納言が60歳で没。吉田兼好は、67歳から69歳位で没した。方丈記の鴨長明も、62歳まで生きている。みな長生きだった。

この長命には、随筆がよかったんじゃないか!そんな考えも生まれてくる。ヒトが生きていくうえで、様々なストレスを抱えているもの。その「はけ口」として、随筆はよいのかもしれない。現代では、70歳80歳まで生きる人が多いが、この平安から鎌倉後期に60歳まで生きることができれば、大往生ということだろう。

*方丈記の特徴は、何か!
鴨長明が、50歳くらいから書いたエッセイで、文章としては短い。全体としては、無常感をあらわしている。人の一生や社会の仕組み、さらに自然に至るまで、時とともに変わっていくものとして捉えた。

自然災害を記録した随筆でもある。「元暦の地震(1185年)」、「養和の飢饉1181年」、「安元の大火1177年」、「治承の辻風1180年」。これらを記録した作品ともいえる。治承には、遷都(京都→福原)もあった。都の場所が変わってしまうというのは、鴨長明にとっても驚きだったといえるだろう。

*鴨長明の生涯を見ると…
方丈記の[26][27][28]に記している。[26]父親の母(おばあさん)の家を継いだが、そこから出て行かなければならなくなった。そこで、今までより10分の1の「小さな家」を自分でつくる。土塀はつくったが、門は作れない。だから水害や盗難が心配だ。

[27]この小さな家に30年間すんだ。50歳で家を捨てて、出家隠遁する。妻子がいなかったので簡単だった。[28]60歳でまた家を建てた。前の「小さな家」よりはるかに小さな小屋とでもいうべきもの。3メートル四方のバラックと言っていい。移動しようと思えば、すぐにバラすことも可能だ。

30歳からは、歌人として成功を収めていた鴨長明。だがそれでは満足できなかった。本当のところは神社の神官、その長になりたかったようだ。その思いが、この随筆の至るところににじみ出ている。

*方丈記、注目した箇所は…。
[3]生まれ、死ぬる人。この世というのは仮の住まいだ。人はどこからやってきて、どこへ向かっていくのかはわからない。その家も、その住人も、いつかは消えていく。これは花にも例えられる。花はきれいに咲くが、いつかはしぼんで消えてしまう。人もまさにこれと同じだ。

[23]大地は変化しないはずなのだが…。
そんな事はないというのが、地震の経験でわかるはず。しかし、月日が経つと人はすっかり忘れてしまう。世の儚さを考えない人のおおさは不思議だ。

[33]人との関係(友人や使用人)とは…。
友人関係は、財産の有無でつながっていると言っていい。人柄、性格でなんか選んでいないだろう。また、使用人だって俸給を第一に考えているはずだ。だから、人を頼りにしない。自分で全てやればいいし、そうなればみすぼらしい格好でも問題はない。自分1人で生きていく腹づもりはある。

[33]静かなる夜明け。今まで行ってきたことは、世俗を離れて生きていこうとする心構えだ。しかしまだまだ修行はできていない。山林での生活をしたというのに、いまだ心は浮ついている。貧しいことに悩んでいては、修行の成果はあがらない。こうなれば念仏を唱えるしかないだろう。

まとめ
「方丈記」の「方丈」とは、3m四方のこと。そんな小さな小屋とも言うべきところで書いた方丈記。すべてのものは移っていく。しかし自分はどうなんだろう。まだまだ悟りの世界には入っていけていない。なんと悲しいことか。

世の中を見渡すと、公家の世から、武家の時代に変わりつつある。世の中の無常を感じつつも、自分の「身の上」に起きたことを引きずって生きてきた。

「無常」を説くのは、そうした長明の気持ちからなんだろう。自分を引きあげてくれなかった親族への恨み。そんな思いも感じられる。この『方丈記』、長明にとっては「心の浄化」だったのかもしれない。

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