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新千円札の顔『北里柴三郎』 窮地を救ったのは誰だったのだろうか?

#新千円札 #北里柴三郎
#予防医学 #脚気論争

18歳のとき、旅先の青森で交通事故に遭った。後部座席に座っていた私は、車同士の衝突で、吹き飛ばされ、頭でフロントガラスを突き破ったようだ。友人ニ人は、かすり傷程度だったが、私はかなりのダメージを負ってしまった。失神し、気づいたときには、病室で寝ていた。どうも頭蓋骨が丈夫だったため、命は救われたようである。

一週間後に退院。自宅に戻ってから、親が精密検査が必要だという。そこで母が連れていった先は、相模原にあった北里大学病院だった。電車に乗り、片道2時間はかかったと思う。しかしなぜこんな遠方の病院を選んだのか?未だに疑問だ。

*生い立ちと、時代背景
今の熊本県小国町に、1854年に生まれた。父は庄屋、つまり現代でいえば村長で、母は下級武士の子と言われている。幼い時から親戚の家に預けられたようだ。甘えを許さず、自立して生きろ!という親の躾とも言われている。

ときは幕末。社会の全てが変わろうとしている時代に育った。幸いだったのが、17歳にして、医学の道に進んだことだ。藩の西洋医学所に入り、オランダ人医師(軍医)マンスフェルトから、最新の西洋医学やその他の学問を学ぶことができた。20歳で上京し、東京医学校(後の東大医学部)に入る。

*ヨーロッパへの留学
医学校には10年ほど勤めた北里。この学校の教授である緒方正則の推薦により、ドイツに留学することになる。師事したのが、炭疽菌培養で有名となったロベルト・コッホ。ここで北里は、素晴らしい業績を残す。破傷風菌の培養と中和抗体の発見である。

また、ベーリングとともに、ジフテリア菌の培養にも成功する。この功績により、ベーリングはノーベル生理学賞をとった。残念なことにきた北里は、受賞を逃してしまう。現代では、同一研究で複数人の受賞が当たり前となっているが、この時代は違っていたようだ。

*帰国後のトラブル
当時の軍隊において「脚気」を防ぐことが、医学者にとって最も優先された研究事案だった。多くの死者を出していたためだが…。
東大の恩師である緒方正則は「細菌」によるもの、つまり細菌説をとっていたのだ。北里は、緒方の実験手法に問題があることを指摘する。

この話しに腹を立てたのは、東大学長だった。恩師に逆らうとは、人としてあるまじきもの。北里柴三郎は東大での職を失うこととなる。軍隊においても、森林太郎(鴎外)は細菌説をとっていた。国をニ分しかねない状況だったといえる。(だいぶ後になって、ビタミン説が正しいことが立証されたのだが…。)

*ピンチを救った人物
医学研究者として仕事ができなくなった北里に、支援の手を差しのべたのは福沢諭吉だった。かねてより、北里の活躍を知っていた福沢。北里の窮状をしるや、北里を自宅に招き、援助する旨を伝える。

1899年、北里が所長を務める「私立伝染病研究所」が設立された。福沢が用意した金は、年間5千万円(現在価値)だったという。しかも、バックには内務省もいて、支える仕組みだった。

*北里柴三郎の功績
1900年には、日本初の結核治療専門病院をつくった。結核は、死に至る病として恐れられた病気である。どれだけ多くの人が、心強くなったことか!

また多くの弟子も育てている。ハブ毒の血清を見つけた北島多一。赤痢菌発見の志賀潔。黄熱病の研究をした野口英世。寄生虫病の研究をすすめた宮島幸之助。梅毒の特効薬をつくった秦佐八郎などである。

*予防医学の祖、柴三郎
当時の日本では、伝染病が蔓延していた。毎年、コレラで4万人近く、赤痢・ペストでも1万人以上の人が亡くなっている。これをどうにかしようと考えたのが、北里柴三郎だった。

また全国にあった医師会は、皆バラバラで考え方も違っていたようだ。これを1つにまとめたのが、北里柴三郎。そしてつくったのが、いまの日本医師会である。その初代会長に北里は就任した。

まとめ
幕末乱世の時代から医学を目指し、多くの日本人を救ってくれた北里柴三郎。現代日本の医療の礎を築いた人物といって間違いないだろう。

後年は、福沢諭吉の支援に報いるため、慶応大学医学部の創設にも力を尽くした。福沢の人をみる目は、確かなものがあったと思う。そしてその恩義をかえした北里。江戸期に生まれたニ人には、多くの共通点もあり、時代のパイオニアたりえた。

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