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天皇から叱られた男!伊藤博文は何をやらかしたのか?

#伊藤博文 #明治天皇
#塙二郎 #山尾庸三 #井上馨
#近代史 #幕末明治  

先日のニュース、トランプ前大統領が銃撃された事件(2024.07)。すぐに思い返したのが、伊藤博文である。ハルビン駅で韓国人に至近距離から銃撃され、命を失った事件(1909年10月)。伊藤博文は1905年の第二次日韓協約により韓国を保護国化し導いた元凶として憎まれていた。この事件のとき、プラットフォームには日本人の警護員は全くいない状況。周りにいたのはロシアの役人と兵のみだった。

*事件一ヵ月後のポンチ絵!
この記事の写真に掲載したのが、伊藤博文のポンチ絵。銃撃され、今まさに倒れんとするその影が「女」のカタチになっている。これは事件1ヵ月後に、伊藤博文を風刺して描かれたもの。「大阪滑稽新聞」に掲載されたものだ。それほどまでに日本において、伊藤の女好きは有名だった。

さらに伊藤博文はこんな詩も詠んでいる。「酒は飲むべし百薬の長。女は愛すべし谷間の姫百合。酔うては枕す美人の膝。覚めてはにぎる天下の権」。あえて世間に向かって、堂々とこんな詩をよむ。悪びれた様子など少しもない。ある意味、立派とも言うべきか。

*明治天皇も呆れる!
明治時代の新聞の記事から。「伊藤博文、天皇の御前に祗候(しこう:謹んで出向く)する時も、芸者を連れて出かけた」とある。葉山の御用邸で、静養中の明治天皇からのお呼びがかかると、伊藤は大阪新地から呼び寄せた芸者の小吉を連れていったようだ。驚くのは、随行した桂太郎も、新橋の芸者を連れていったという。

それほどに伊藤博文は、明治天皇から信任されてたということだろう。しかし、天皇も「いい加減にしなさい!」と注意したようだ。また、伊藤は、無類の酒好きでもあった。一旦酒が入ると、はちゃめちゃになる。呆れるのは自宅に2人の芸者を泊めていたこと。なんと「夜のトモ」までさせていたようだ。たぶん明治天皇、そこまでは知らなかったのではないか。

*伊藤、若気の至り!
血気盛んな攘夷志士の一人だった伊藤博文。暗殺までやっているという。事件のあらましはこうだ。国学者の塙次郎がニ名の攘夷浪人によって惨殺された事件(1862年12月22日)。幕府は必死で捜査するが、下手人不明のままうやむやとなった。

明治になってから、土佐の田中光顕が証言している。「あれはイトーとヤマオがやった」と。イトーとは伊藤博文で、ヤマオは山尾庸三(のちの法政局長)。
歴史家の中原邦平が、伊藤に聞いている。すると「あのときは実に危なかった!と申すのは、着物に血がついておったのよ。血のついたまま幕史の前を通り抜けたが、もし捕まっていれば、万事は休したであろう」と。

*英国への密航、長州5人組!
この事件の翌年、井上勝と山尾庸三は、長州藩に英国ゆきを打診する。この話に井上薫もくわわり、当初は三人でいくこととなった。長州藩からもお許しが出て、1人200両、合計600両(今の金額で200万円ほど」と決まる。

この話に、伊藤博文と遠藤勤助もさらに加わることになる。この密航は、英国で学問を学んでくるというもの。いずれにしても旅費が足りない。懇意にしている英国商人に1人いくらいるかを尋ねると、1人1000両はかかると言う。そこでこの五名、江戸長州藩邸にあった武器購入代から5000両を借り受ける。とにかく後で返すからと…。

*伊藤博文と吉田松陰の関係!
現代ではやたらと、伊藤は松陰の弟子と言われている。しかし本人は違うようなことを言っているのだ。「世の中では、私が松陰の塾に永くおって、松陰の弟子のように言っているものがあるが、それは事実上間違いであって、私は松陰の世話にはあまりならない。したがって、先生の教えも受けず、当人に会ったことも度々はない」としている。

これはどういうことか?どうも松陰ののこした書に問題があるのかもしれない。それによると、伊藤について「才劣り、学幼きも質直にして華なし」とある。これが気に食わなかったのか。また伊藤は塾生では最下層の侍だったことも関係しているのかもしれない。塾仲間からは、一歩置かれた存在だったの可能性もある。

まとめ
伊藤博文はロンドン留学によりその才能の華がひらいた。まだ幕末動乱により、伊藤よりも能力のあるものが、次々に死んでいったことも伊藤の出世につながったと言える。ヨーロッパの先進文化を、貪欲に日本に取りいれるという極めて単純ともいえる発想。これが功を奏したのだろう。

立憲政治体制の確立に力をちくし、明治憲法を発布。帝国議会を開設し、今日までつづく政党政治の礎をつくった。ただその裏には、現代流の倫理観は全くなかったということだ。しかし、明治という時代、それがまかり通る「世の中」だったとも言えるだろう。

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