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[ 美術 ]パブロ・ピカソ、どうして偉大な画家たらしめたか!

#ピカソ #パブロ・ピカソ
#アビニヨンの娘たち
#ゲルニカ  

『凡人は真似をし、天才は盗む』、これはピカソが語った言葉。この盗むとは、自分のものにしてしまうということだ。模倣は所詮モノマネでしかない。つまり本家本元がいるということ。しかし、自分の血や肉にしてしまえば、これは自分独自のものとなる。そのことをピカソは語っていたのだろう。

ピカソの偉大さ!それは人生の節目節目で、その作風をおおきく変えたことだ。しかもそれはピカソ独自なものだった。だが、実際は周りの様々な人のアイディアをとりいれたもの。本家以上に仕上げたため文句いわれる筋合いは無い。ジャズ愛好家の私にとって、これはマイルス・デイヴィスに通じるものを感じた。マイルスも人の技を盗んで、世界のマイルスとなった人物だ。そして、年ごとにそのスタイルを変えていった。

*ピカソの生涯⑴
わかっているだけで7人の女性と付きあった。恋おおき男だったと言っていい。そして関係を持った女性によりその都度画風が変わる。逆に考えれば、新しい境地を開くために女性を変えていったともみれるようだ。とにかく周りの人物に影響受けやすい人物だったといえるだろう。

ピカソはスペイン南部の街マラガに、1881年長男として生まれた。父親は絵画の教師で、画家。息子が生まれると、すぐにその才能に気づく。8歳9歳でも自分を凌ぐほどと思ったようだ。15歳で描いた作品「科学と慈愛」が国立武術展で入選。この年の秋、王立美術学校に入学する。しかし、感染症にかかり一年で中退した。

その2年後にバルセロナに戻る。ここで友人を作り、個展も開いた。この友人たち(カサセマス、パリヤーレス)とともにパリに向かう。ゆき着いた先は、モンマルトルの洗濯船と名付けた木造の古下宿。ここで親友だったカサセマスが自殺してしまう。失恋したためだったが、ピカソに暗い陰をおとした。このとき描いた作品が、青味かかった作品群。つまり青の時代である。

*ピカソの生涯⑵
友の死、その苦しみから救ってくれたのがフェルナンドという女性。このときも画題は下層の貧しい人たちを描いてはいるが、色調がバラ色になり明るくなった。また、パトロンも見つけている。1907年26歳で「アビニヨンの娘たち」を制作。このアビニヨンとは、バルセロナの売春街、そこの女性たちを描いたものだ。

この絵には、過去に知りえた画家たちの技法を取りいれて描いたものだ。まずピカソより300年前に活躍したエル・グレコ。「第五の封印」からヒントをえた構図となっている。また、その顔は、ボール・ゴーギャンやアフリカ彫刻に影響うけた。そして人体を図形として、直線や三角形に描いたのは、セザンヌからインスパイア(刺激)をうけたと思われる。これらを見事に自分のものとし、融合させた。

*ピカソの生涯⑶
「アビニヨンの娘たち」はキュビズムの幕開けとも言われているが、じつはまだその芽生え的なものだった。その確立には、友人のジョルジュ・ブラックの影響が大きかったようだ。ブラックの作品「スタックの家」がキュビズムの始まりと言われている。二人は切磋琢磨し、キュビズムを広めていき、この数年でキュビズムが大ブームとなる。

1914年第一次世界大戦で、仏国人ブラックは徴兵されてしまう。一方、パトロンとなっていた独国人ワイラーもその資産が凍結となる。ピカソは喰うに食えない時代をむかえた。そのため、仕方なくバレエの舞台美術の仕事に手をだすことに…。このときピカソ36歳。バレエダンサーのオルガ・コクローバーという女性と知り合い、深い仲となった。オルガは上流階級に多くの知人を持っており、ピカソにこの人たちの好む絵を描くように指示する。すると途端に売れるようになった。これが新古典主義の時代(1918年ピカソ37歳)といわれる。

*ピカソの生涯⑷
1925年(44歳)、妻のオルガとは不仲となる。すると精神が不安定となり、作風がまたここで変わることに…。夢と現実が混在となった「シューレアリズム」(超現実主義)の時代だ。そしてその10数年以上の歳月のあと生まれたのが「ゲルニカ」という作品である。

スペインの田舎町ゲルニカが、独軍ナチスの攻撃を受けたことを描いたものだ。この作品では、街にいた女性や子供、そして馬などが犠牲になった姿を描いている。縦3.5m横7.8mの大作。死んだ我が子を抱き、泣き叫ぶ母。建物から落下し手を挙げる女性。暴力や破壊を象徴する牡牛などを描きこんだ。

まとめ
ピカソはパリに住んでいたとき、頻繁にルーブルに足をはこんでいた。そのピカソの作品が、ピカソ生前にルーブルで展示されることになる。まさにこれだけでも、ピカソの芸術が高く評価されていたことを伺いしることができるということだ。

生涯で制作した作品の数も驚くべきものがある。その数15万点にものぼり、もっとも多くの作品をつくった芸術家としてギネスブックにも登録された。またさらに驚くのは73歳のとき、陶芸を通じて知りあった女性と同棲し、その7年後つまり80歳で結婚したという話し。ピカソは91歳まで生き、芸術活動を生涯にわたり続けた。

日本でいえば、岡本太郎をイメージするとわかりやすいかもしれない。じつはこの岡本太郎もピカソにインスパイアされた芸術家のひとりだ。ピカソがちょうど73歳で女性と知り合ったとき、岡本はフランスにいてピカソに感銘を受けていたという。そしてその生涯を通じて、岡本は芸術の道を極めていった。ピカソの影響力、その後もいまだ世界の多くの芸術家に与え続けている。

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