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自分の為の料理

「自分の為の料理を作ろうよ」

以前働いていた職場で上司に言われた言葉。
聞いた時、もやっとしたのを覚えている。

本人は多分、もっと自分を出していこう、程度の意味で言ったのだと思う。
あるいは、アイデアを出す方向かもしれない。他の仕事で自分らしさを出させたいといった感じを覚えたことがあるから。

けれどそもそもの話、大事にしているものが違う。
上司は飲食店というある意味非日常の場だからというのもあるのだろうけど、自分にしか出来ない仕事を求めてきた。
もっとも、だからか基礎の地味な提案を軽く見るフシがあり、基盤の提案をいらないと蹴り飛ばしてすべて破綻させてしまったから、上司のやらせたい事も意味がなくなっていたけれど。

僕はどちらかと言えば基礎や日常が大事だと思っていたし、惹かれるのは常に食べる料理だった。
そして料理は食べてもらってなんぼのものだと思っているから、食べる人の事を無視することはあまりしない。
だから結果として、人の為の料理に見えたのだと思う。

けれど、というかそもそもの話、先に書いた通り料理は誰かに食べてもらうもので、仕事は求める人がいるから成立するもの。
つまり、いくら自分がこうしたいと料理を作っても、アピールしても、相手が拒否すれば料理はゴミになるし、仕事は成立しない。

自分の為の料理なんて言われても、そんな物はすでに作っていたりするし、あるいは上司が出したくないと渋るような大した事ない物だったりする。

例えば白菜や茄子などを塩で揉んだだけの浅漬け。
居酒屋でも見かけなくなってきている気がする。
塩だけのシンプルな料理。悪くいうと地味で単純。けれど意外と難しいもの。

そしてその単純な料理が日本酒のアテとしてはうってつけで求められるのだが、上司は単品で店に出すものではないと思う人なのだ。

そう言えば以前、あるカフェで善哉を頼んだ時、お供に山盛りの白菜の塩もみがお供に出て来たことがあった。

結構な量があったのだが、善哉と一緒に頼んだ紅茶、どちらにも丁度いいアテになり、すいすい食べてしまった事がある。
正直、白菜漬けが一番感動してしまった。もちろん、善哉や紅茶が美味しかったからなのは言うまでもないと思う。けれど名脇役だったのは間違いない。

自分の作りたい料理や薦めたい組み合わせが無いというのは店の色や自分の色が無いという意味になるけれど、押し付けだけでは店は成立しないし、単純に料理を食べてもらえないかもしれない。

こうして改めて考えてみると、自分の為の作る料理なんてものは、あってないものかもしれない。
少なくとも他人には価値を図れるものではない気がする。

自分の為の料理を作る。
間違いなく今は出来ていない。休業状態だから。

生業として作れない今の僕にとっては、お客さんに料る事そのものが自分の為の料理なのだろう。


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