介護人材を外国人に求めてはいけない
就業総労働人口が減少し、高齢化が進み少子化もますます進むなかで、当然のように介護職の担い手も減っている。
そこでその解決策として出ているのが、外国人の登用だ。
結論から言えば、介護職の人手不足を外国人で賄うのは反対だし、してはいけないことと断言したい。
外国人労働者そのものを反対しているわけではない。
異文化で育ってきた異国籍の人が、日本文化で育ってきた高齢者、特に認知症高齢者の介護を適切に行えるとは思えない。
一定の教育によって、最低限の介護ができるということは十分に理解はしていることは添えておく。
※年長者を敬い、高齢者への適切な対応が取れる外国人が一定数いることもわかっている。
他業種で外国人の手を使って、人材不足を補えるところがたくさんある。
また、ICTの活用により、人材不足が補えている業種もある。
例えば建設業、製造業などは、顕著にそれが表れている。もちろん『職人技』を活かさなければできないこともあり、外国人や機械化では補えないことがあるのも知っている。
技能実習た、ODAだ、EPAだと様々な形で外国人労働者が日本にやってくるが、やはり『技能』を学びそして活かすということでみれば、やはり介護は『技能』ではない。
言葉の定義を語るつもりはないが、『技術』はある程度身に付く。ベッドから車椅子への移譲、機械浴を使用した入浴介助、レクリエーション、歩行や立ち上がり等の介助などなど。
このあたりだけを仕事にするのなら、外国人でもいいだろう。しかし実際にはそうもいかない。
声掛けが必要で、その内容はその時々で変化する。これが上手いか下手かが優秀な介護職とそうでない介護職の違いとしても表れてくる。
そして認知症ケアだ。
65歳以上の高齢者に占める認知症高齢者の数は格段に増えており、介護サービス利用者の1/3~1/4は認知症があると思っていいだろう。
アルツハイマー型の認知症を例にすると、個人差もあるし重さの度合いもあり一概には言えないが、言葉は悪いが内面的には本能剥き出しになっていると思っていい。
赤ちゃんや動物が本能的に、合う合わないを察知するように、認知症の方も理性は置いておいて、対応する人を本能的に「何か」を察知する。
『機微』とでも言うのだろうか。
日本人が持つ、『察する』という心の有り様を発揮しなければならないのが
日本人を介護する
ということになるんだろう。
これを果たして外国人にできるのだろうか?
これを、介護に求めることは、我儘なのだろうか。
私はそうは思わない。
日本人の誰しもが、その機能の大小はあっても、心の機微を感じ取ることができると思っている。
だとするなら、ICTやIoTに仕事を奪われる人、外国人で賄うことができる仕事に就いている人を、介護に向かわせるよう仕組みを作ればいい。
話しは逸れるが、若者の個人事業主が増加している。
個人事業主といえば聞こえはいいが、事業を行う主、というよりは、個人で生活費を賄う者という感じだろう。
非正規雇用が増えていることの問題はこれまでも今も議論されているが、この個人事業主の増加も同様の問題だ。
通販の配達を請け負っていたり、飲食品の配達をしたりしている者。これも個人事業主になってくる。
この個人事業主たちは、将来を見据えてその仕事をしているのだろうか?
本当にその仕事をやりたくてしているのだろうか?
本当にその仕事にやりがいを感じているのだろうか?
多くは、お小遣いや生活費を稼ぐ手短な手段として選択しているに過ぎないと思われる。
こういった人材を正規雇用し、やりがいを感じてもらい、適正に収入を得る場を与えていくことが、介護職の人材不足を補う手段になると感じている。
しかし課題として、一体どれだけの給与を支払えるのか。どれだけの年収を保証できるのか、ということが残ってくる。
ここはまた別に書いていきたいが、介護を生業とする法人が、生ぬるい経営環境から脱却する必要があるということだけは書いて、今回は終わりにする。
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