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事実と真実の適用適合居住範囲

うぇるかむとぅぱすたふるわーるど!
こんちゃ!ぱすたです!

サムネ画像は、わたしが今食べたい素麺です(泣)w
暑いですよね😂夏ですわこれ。


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本日は言葉の使い方(選び方)の違いについて考えていること。
これを書いてみようと思います。

「真実」という言葉で表されている(個人的な見解で恐縮ですが)、
それは、「事実」に当人の感想や恣意が混じり込み過ぎてて、事実を含んでいる主観に過ぎず、真っ当ではないよね?ってことを思ってみたりします。
好きな例えを言います。
事実というトーストに、感想や恣意、主観というマーガリンを塗ったものが真実である。
とか
事実は(血)管で論理を、真実は(血)液で感情を司るよねぇ🫰ラブ~♡である。と
(まあ、職場で↑っていわゆるこんな考え方てすよねって言うと、若いから屁理屈ばかり言いやがる!と形容されてしまうのですがw)

とりあえず、こういうときはまず言葉の意味をググるとこからやってみよう💡

真実:嘘偽りがないこと。本当のこと。
事実:実際に起こったこと、現実に存在する。

主観性と客観性
真実には、拭いきれない主観が混じり込み、登場人物の数で、語られ方、捉えられ方が変容する。
事実には、人の目線が省かれた事象のみ切り出され、客観的視点の見方を強要されるとも取れる。

この辞書的な、寂しげな、言い回しを使うと
真実はいつも(その主観性に起因する、当人にとっては)ひとつ!
となり、
事実です。はい論破ァ♪(って言うけれどもさ?それで全部が決していいと思う?それほど人の世の物事、酸いも甘いも割り切れないよ?)となると思います。


この世界、特に、人と人との間に起こることがら。または、人が起こしたこと。これには真実も事実もある。ないなんてことはないし、真実だから、事実だからで済ませられるなんてのはないんじゃないかなと思います。

先に比喩として、
血管と血液を用いました。
私の理解の仕方の問題ですが、これが一番わかりやすいなぁって思ってます。
いくら血管(論理、事実)を張り巡らして、固めたとしても、血液(感情、真実)が流れなければ、成り得ない。
どんなに想いの込めた血液(感情、真実)があれど、血管(論理、事実)がなければ形を成すことも、伝っていくことも、ましてや目的に届くなんてことも成し得ない。

断罪するにも、
後ろ盾するにも、
しばしば使われますし、
生活から、営みから、切っても切り離せない言葉であると思います。

正しく使う。
なんて、中々できないなぁと尻込みしてしまいます。

しかし、
使って、ふりかざして、盾にして、投げて、切り裂いて、かばってみなければ、血肉にならぬ表現であると思います。


ぐるぐる頭を使って考えて、こんなにもグダグダ垂れ流し、精度を高めて行こうと思うこのやり方、、

これこそが言葉を上手に伝えるための方法論!
真実はいつもひとつ!!!

…って言いたかっただけかもしれない🫰w


それでは!
see you,soon



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