【雑記1】

ダラダラと話をしたい。
学生の頃は深夜にお酒を飲みながらとりとめのない話をしたものだが、それはとても楽しかった。ワイワイガヤガヤはあまり好きではなく、静かに真面目に結論の出ない話をするのが良かった。
特に音楽とか人生とか、結論なんて到底出ないような議題についてあれこれ自分の意見を述べ、聞きあうのが好きだった。ああでもない、こうでもない、議論が進むことは求めずダラダラと心ゆくまで話すことが幸せだった。



晩ごはんに定食メニューか鍋が最近の定番だ。
帰宅したらレシピ本を開き、そのとおりに作っていく。食べ終えたら片付ける。お風呂に入る。ゲームをする。寝る。そんな規則正しい生活は大事だが、時折めちゃくちゃにサボりたいときがある。できれば最初にお風呂を済ませて、ひたすらにダラダラしたい。私は最近の生活にどこか窮屈さを感じているのかもしれない。
ダラダラできる日があれば、晩ごはんにはお菓子を食べたい。


自我を出さずに生きていきたい。
しかしそれは自分で自分を操作する毎日のはじまりだ。
私は過去、「何を考えているのかわからない」と言われたことがある。その人にはよく気がついたねと言いたいし、そのときの私は私が考えていることがわからなかった。なんなら今でも自分のことはよくわからず、瞬間的に適当な感情や意見を持つことができない。
でもやっぱり自分らしく生きることを求めてはいけない気がする。特に社会生活において上手くやるには、自分で自分を制御するのは大切だと思う。それを(期間的にも強度的にも)やりすぎた結果失感情症に陥ったのが私だが、逆に、そうでなければ私は私のことをもっと嫌いになっただろう。

私が自分のことが好きと思えるのは、私が私を制御しきっているその瞬間。それは私ではないのかもしれない。


最近、寝る時間が23時をこえている。私は前主治医に睡眠薬を22時に飲み、それ以降は活動しないようにと言われていた。しかしながら色々あって22時に寝ることができない。約束を破っているようで心苦しい。
実を言うと睡眠薬を飲み忘れても入眠できるし、睡眠薬を飲んでいても中途覚醒はおさまらない。以前はよく効いていたのに、お守りだった睡眠薬はおまじない程度でしかなくなってしまったようだ。


目に見える異常性、言って理解される異常性がほしい。体調不良とか、皮膚炎とか、発熱したときの数字とか、軽すぎる体重とか。そんなことをよく考えてしまう。心配されたいという構ってちゃん思考なのかもしれない。
双極性障害も、毎日のようにうるさく響く耳鳴りも、他人からみたらよくわからないと思う。だから自分ひとりで何とかするしかない。たったひとりの戦いだ。
どうしてそういうふうに思うのだろう。
私は自立できなくなったときのことを極度に不安に思っているのかもしれない。あるいは異常がないと他人に頼れないのかもしれない。
他人に甘えられる人は凄いなと思う。同時に私にだけは甘えないでほしいと思う。だけど、甘えられたときに依存的になるほど尽くした経験もある。
きっと私は不安定なんだと思う。不安定さを隠していて、でも本当はその気持ちを外に出して誰かに思い切り甘えたいのだと思う。


自立心と依存心、そのバランスが悪くてすぐぐらぐらしてしまう。自己の確立をしたくて、同時に自分を出したくない。
そんなバラバラな気持ちが共存してぶつかりあって、今の私がある。ぶつかって悩んでぐらぐらしたから、薬に頼る人生になったのだろう。


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