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私役は私だけ

最近走り始めた。だんだんと距離を走れるようになって、今、初めて自分を好きになれそうだ。
 
今までずっと、自分は何が好きで、何をすると幸せで、というのが本当にわからなかった。高校の卒業式の日、体育の先生との会話が今でも忘れられない。

「お前はいつもにこにこしてるけど何考えてるか最後までわかんなかったよ。部活とか授業とか楽しかった?」
「はい!楽しかったですよ!」(いつもの愛想笑い)
「何してる時が楽しいとかあるの」
「・・・いや自分でもわかんなくて。」
「自分でもわかんないんじゃしょうがないな、これから見つかるといいな」

この、これから見つかるといいな、がしばらく3年間くらい頭の片隅に残っていて、でも見つからなくて、ただ、自分は空っぽだな、という発見だけは、頭の中心から薄く満遍なく広がって、脳細胞の隙間を満たしてて。

私を満たすものの正体が空虚という矛盾。自己紹介はもちろん嫌い。

あえて粗雑な事を正直に申し上げると、私にはたまに「どこにでもいる人像」というのを無意識に作り上げては毛嫌いする、という謎の思考ベースが存在する。きっとその人は、基本的に追い込まれないと行動できない性分で、その割にちょっと真面目だけど真面目と思われたくなくて、判断基準を見えないクラウドみたいなものに預けていて、友達は多くも少なくもなく、急に誰かに「明日スカイダイビングいこ!」とか言われても「なんでやねん(笑)」と真正面から返事をしてしまうような人だ。別にモデルが存在するわけではないけど、というか、どこにでもいる人、なんて人はこの世に存在しないのだけど。でもなぜか、そういう人を想像しては腹を立て、自分は変わった人間だ、深い人間だ、と思いたくてしょうがない。

とりあえず、空っぽをアイデンティティにはしたくないから、そんな観賞用の植物に擬態した人体には私の目に見いだせる価値は含まれていないから、探して走って、走って探して。

なくても、走れば歩くより、稼いだ距離と浮いた時間があるはずだから、わっかんないけど、いけるやろ。

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