
【短編】そっくりさん
古民家の六畳間に薄暗がりが漂う。障子の外には夕焼けの光が入り込むが、部屋の中は重たい空気が流れていた。
母は蝋燭の灯りをともし、そっくりさんを椅子に腰掛ける。白髪が乱れ、顔にしわが刻まれた母の手はふるえていた。
「お父さん、ご飯ができたよ」
母は茶碗にご飯を盛り付け、そっくりさんの前に置く。自分の分も用意し、母とそっくりさん、ぼくの三人で食事を始める。いつも通りの光景だ。
「お父さん、おいしいかい? 私は手抜きしたけどね」
母自身も同じ物を口に運び、歯を立てるような音が部屋中に響く。隣でその音を聞きながら、ぼくは嘔吐感に耐えていた。
「今日のおかずは、お父さんの大好きな煮込みハンバーグよ」
母は独り言を口にする。微笑を浮かべ、そっくりさんを見つめる。
「そういえば先日、お父さんの服を干してたら、近所の人に変な目で見られたわ。またあのことかしら…」
母は溜息をつく。そっくりさんは無言のまま、ふてぶてしい表情でいる。そっくりさんはもう食べ物なんて食べられないのだ。それでも母は毎食、そっくりさんの分まで用意する。そっくりさんと一緒に過ごす時間が、母にとっては何よりの幸せなのだろう。
「お父さんはもう、死んだんだよ」
いくらぼくから伝えても、母は聞く耳を持たない。
「あら? お父さんったらまたお漏らししちゃって。ほんとお父さんたら……」
母の顔が悲しそうだったのでぼくは慌てた。しかしぼくがなにかをする前に、母がティッシュを手に取り、そっくりさんの汚れた下半身を拭き始める。
「ほんとにお父さんはいくつになっても赤ちゃんなんだから。ほんと、困っちゃう」
母は笑いながらそっくりさんの汚れた下半身を綺麗にしていく。ぼくは無言で食事を続けた。そっくりさんの目だけがらんらんと輝いている。ぼくはとても居心地が悪い気分になったが、どうしようもないので我慢した。
「あら? お父さんったらまた……」
母がまたそっくりさんの粗相に気づく。
「もうっ、だめじゃない」
母はそういいながら、ティッシュでそっくりさんの濡れた下半身を拭き始める。ぼくは我慢の限界だった。
「ねえ、お母さん」
ぼくは母に声をかける。
「もうお父さんはなにもできないんだからさ、そんな世話を焼くのはやめてもいいんじゃない?」
母はぼくをキッと睨みつけた。
「……また変なこと言って」
母はぼくを叱りつける。
「お父さんがかわいそうでしょう?それにね、お母さんはお父さんのお世話をするのが楽しいの」
「でも……」
「でもじゃないでしょ? もうっ!」
母は怒り出した。
そっくりさんはふてぶてしい表情のまま、母にされるがままになっている。ぼくはもう何も言えなかった。
食事が終わったのでぼくは食器を下げる。自分の部屋に戻り、机に向かった。参考書とノートを開き、勉強を始めた。ぼくが参考書に書き込んでいると母が部屋に入ってきて言った。
「お父さんったらまたお漏らしして……」
「いちいち来なくていいよ!」
ぼくは思わず声を荒らげてしまった。母はびっくりした顔になり、そのまま部屋を出ていった。 そっくりさんはそれからも色々とやらかした。ぼくは夜遅くまで勉強をする。ふと喉が渇いたので、台所までいくことにした。しかし途中でぼくははたと立ち止まった。なぜなら階段を降りてすぐのところに、母が立っていたからだ。
「あら? お父さんさんったらまた……」
母はそういいながら、そっくりさんの汚れた下半身を拭き始めた。
「もうっ! だめじゃない」
母の目はらんらんと輝いていた。ぼくはもう我慢ができなかった。
「お母さん!」
ぼくは思わず叫んだ。
「いい加減にしてよ!」
母はぼくを睨みつけた。
「また変なこと言って」
母はぼくを叱りつける。
「お父さんがかわいそうでしょう? それにね、お母さんはお父さんのお世話をするのが楽しいの」
母が微笑みながら言った。何度こんな会話を繰り返しただろう。またいつもと同じやり取りをする。胸が締め付けられ、胃がむかむかと痛んだ。
母の悲鳴が静寂を裂いた。隣の六畳間に忍び寄ると、蝋燭の光が揺れているのが見えた。ふと壁に目をやると、大きな血の手形が付いている。 母はうずくまり、壊れたそっくりさんを必死で繋ぎ合わせていた。その口元は赤くにじんでいた。
「大丈夫、これで治るから」
部屋の隅で母はそっくりさんにしがみついていた。
「お父さんが大変、お医者さんを呼ばないと」
その言葉に困惑する。そもそも父は5年前に他界しているのだ。やがて母をベッドに就かせると、母は目を閉じて穏やかな寝息を立て始めた。隣で見守るこの光景に、胸が痛んだ。母は日頃からそっくりさんこそが父であると信じ込んでいる。
「あなたがいなきゃ、私は生きていけない」
涙を流しながらそっくりさんを抱きしめていた。その姿は、月光に照らされ、悪夢のように恐ろしげだった。
母の精神状態は限界だった。完全に正気を失い、認知症専門医も頭を抱えるほどだった。
「施設なんて絶対いや!私は正常なの!」
目を剥いて笑う母の姿が恐ろしかった。説得しても全く入所を拒否する母を、家に置いて在宅医療を開始するしかなかった。
そんなある日の深夜、母の精神状態は著しく悪化し、完全に正気を失っていた。突如、母は行方不明になった。必死の捜索の末、ついに母を発見したとき、我が家の中でそっくりさんと対面していた。
「お父さんがここにいるから…」
力なく呟く母をベッドに寝かせる。顔色が悪く、水分を与えるが飲み込めない。
「お父さん…ここにいたのね」
虚ろな目でそっくりさんを見つめ、力なく倒れ込んだ。急いで病院に運ぶが、意識が戻ることはなかった。医師は脳梗塞だと告げる。母の生命維持装置を外すとき、ベッドの傍らにはそっくりさんがあった。
「お父さん…お父さんが呼んでる…」
意識が遠のいていく母が、枕元の誰もいない空間に手を伸ばす。その手が力なく垂れ下がった時、母の命は尽きた。そっくりさんの傍らで、彼女は永遠の眠りについたのだった。
「すぐ戻るから」
母は言って出かけていった。近所のスーパーにでも行ったのだろう。ぼくはまだ状況を飲み込めずにいた。何度も母に確認したが、伝言はなかった。心の中で、「大丈夫よ」と言葉をかけてくれることを期待している自分がいるのに気づいた。