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【小説】きっかけ 第5話


チュータロウ:少年のネズミ


 草地の奥深く、風に揺れる草の中にひっそりと佇むネズミの巣があった。そこは、自然の恵みが豊富で、静かな平和が広がる場所だった。しかし、その静けさは突如として破られた。
「ネコだ!ネコがいる!」
 一匹のネズミが息を切らして巣に戻ってきた。小さな体を震わせながら、仲間たちに危機を知らせる。
「ネコのハンティングに遭って、死んだふりして逃げてきた」
 父親ネズミは深いしわを寄せて眉をひそめ、母親ネズミは心配そうに子供たちを抱き寄せた。
 老齢ネズミたちも集まり、深刻な顔で話し合いを始めた。
「この付近での生活は危険じゃな!」
 老齢ネズミが口を開いた。
「ネコがいる以上、ここに留まるのは無謀だ。子供たちに危険が及ぶ」
「何か対策を考えなきゃ…」
 母親ネズミはつぶやいた。
「そうだな、安全な場所を探す計画を立てよう」
 父親ネズミは頷きながら提案した。祖父ネズミが地図を広げ、みんなで頭を寄せ合い、どこが安全なのか、どの道を行けばよいのかを議論し始めた。
 その様子を、少し離れた場所から子供のネズミたちがじっと見つめていた。大人たちが真剣な顔つきで話し合うのを見ながら、少年のネズミは虚勢を張った。
「ネコなんか怖くない!」
 そう言うとネコチャッチャーを手に取った。その姿に友達のネズミたちは目を見張ったが、すぐにいつものことと笑い声を上げた。
「またまた、そんなこと言って!」
 友達のネズミは茶化したが、少年のネズミは胸を張って言った。
「あのネコはゴミを漁ってるだけだ!」
 少女のネズミが心配そうに尋ねた。
「本当に大丈夫?」
 少年のネズミは鼻を鳴らして答えた。
「高貴な肉食獣のふりをして、いつ見ても寝てるか食べてるかだ。奴に未来はない、ハッハッハ」
 勇ましく言い残し、少年のネズミは巣を出ていった。しかし、彼が巣を出た途端、巣の入り口でつまずいて転んでしまった。
 友達のネズミたちは笑いをこらえきれず、クスクスと笑い始めた。
「ふん、こんなのは序の口だ!」
 少年のネズミは赤くなった顔を隠しながら言い放った。


 気を取り直し、彼はゆっくり立ち上がると草地を駆け抜けた。そして用水路にたどり着くと、陸橋の欄干に両手をついて身を乗り出し、下を流れる水をじっと見つめた。西日が水面にきらめいている。川の流れを眺めながら、彼は深い溜め息を吐いた。つい口にしてしまった自分の言葉に後悔していた。
「本当にネコなんか怖くないのか?」
 彼の心は不安でいっぱいだった。どうすればいいのか分からなくなり、不安が次第に大きくなっていく。しかし、友達の前で見せた強がりを覆すことはできない。特に、好きな女の子が見ていた前だけに尚更だった。
 少年のネズミは深呼吸をし、もう一度ネコキャッチャーを握りしめた。
「ここで退くわけにはいかない」
 少年のネズミは夕焼けの空に向かってネコキャッチャーを突き上げた。日は傾き、いつ誰が攻めてくるかもわからない。用水路にかかる陸橋に立つ少年のネズミは、たなびく赤い彼岸花を仰いだ。
「戦闘準備は整った。いつでも来やがれってんだ!」
 そうつぶやく瞳には、覚悟の色が滲んでいた。その時、彼の足元にカエルがぴょんと飛び跳ねてきた。驚いた少年のネズミは、思わず飛び上がって「ぎゃあ!」と叫んだ。その声に驚いたカエルも「ゲロッ!」と鳴きながら飛び去った。
「まったく、今日はついてないな…」
 少年のネズミは、最後にもう一度川面を見やり、ゆっくりと陸橋から降りていった。

つづく

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