「光る君へ」のための平安準備情報⑫

気づけばほかのことばかり書いていて、平安準備情報は1ヶ月以上あいていました。
今日は「お誕生日」をテーマに少しだけ書いてみようと思います。

0歳はない

まず、平安時代、というか、近代にいたるまでの誕生日の考え方の前提として、「0歳はない」ということがあげられます。
生まれた瞬間から1歳がはじまります。
ですから、昔の人の年齢表記はマイナス1歳、場合によってはマイナス2歳して考える必要があります。マイナス2歳とは…?

お正月に一斉に年を取る

近代あたりまでの年の取り方は、1月1日に一斉に年を取るスタイルでした。
私の亡くなった祖母は大正15年(は昭和元年でもあるのですが)生まれでしたが、晩年は、数え年のほうがまず出てくるような感じでした。子どもの頃のなじみが口をついて出る、というかんじ。
先に書いたように、0歳はありません。
ということは、たとえば11月にうまれた赤ちゃんは、生まれた瞬間に1歳、そして、1月1日に2歳になってしまいます。
生後2ヶ月、要は0歳のうちに2歳になってしまうので、マイナス2歳する必要が出てくるということになります。

誕生日はそれほど大事ではない

以上のことから、誕生日そのものはあまり重視されていなかったと考えられます。
例外は赤ちゃん。現在は「お七夜」「百日祝い」あたりは行っているおうちもあると思いますが、それ以外はそれほど行われていないのでしょうか。
しかし、平安時代は、三日、五日、七日、九日、五十日、百日と細かくお祝いしていました。それほど細かく無事を祝いたくなるほどに乳児の死亡率が高かったことの表れであるといえます。
これはお誕生日から数えますから、誕生してからの1年間はお誕生日も重視されていたということになります。
しかし、それ以降は誕生日が重視される記述はないことから、現在のようにお誕生日祝いなどはしていなかったものと考えられます。

女性37歳の重厄

現在でも厄年、というものがありますが、平安時代は女性の37歳という年が、重厄と考えれていたようです。
先ほどから書いてきたことからいうと実年齢としては35,36歳ということになります。
どれほどかというと、『源氏物語』の主要人物である藤壺は「37歳」で亡くなります。
紫の上も、あえて少し年齢操作をしてまで、「37歳」で死に至る病を発病します。
現在も、30代は前厄後厄いれたら、女性はほぼ厄年ばかり、というかんじですので、そのあたりの年代が体の変化が起こりやすい年、というのは平安時代から続く経験値に基づくものなのかもしれません。

参考資料

かつ、このあたりの年齢から、男女の共寝を避けるようなところがあったようです。たとえば光源氏の妻の一人の花散里という女性は、年齢は確定的にはわからないものの、だいたい30代後半以降と考えられる時点で光源氏との間に御簾を立てて寝るようになったことが描かれています。それを光源氏は寂しく思いつつも受け入れてもいます。

現在の還暦=40歳

現在は60歳を還暦としてお祝いすることがありますが、平安時代はそれが40歳でした。「四十の賀」といってかなり大々的に祝ったようです。
40歳=60歳と考えると、現在の私たちの人生は、平安時代の人と比べると1.5倍ある、といえるようです。
平安時代でも四十の賀のみならず五十の賀、六十の賀の例もありますので、みんなが早く亡くなるというよりは(もちろん現代よりはどうしても早く亡くなるとはいえ)、乳幼児、20,30代の死亡率が現在とは比べものにならないほど高かったため、平均寿命が短かったといえそうです。
自分の年齢を平安時代の人にあてはめると…
ちょっとこれからの生き方を考えたりもしてしまいます。

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