見出し画像

普通の範囲が時代とともに狭くなっていないか

昔を振り返るような話題は今の人に嫌われるが、どうしても年をとると振り返りたくなってしまう。基本的にはただの愚痴だ。

現代では少し人より違っていると、何かしらの症状名がつく世の中になりつつある気がする。

小学生のころ、修道院の跡地にそびえたつ一本の巨木の傍らに、バイオリンを弾いているおばあさんがいた。いつもいるわけではなく週一回くらいいるので、レアな感じがまた小学生の興味に火をつけた。
下校中の子供たちが見つけるとバイオリンばあさんだ!と叫びながら駆け寄る。ひどい話だが、たぶんみんなおばあさんが好きだったんだろう。おばあさんは気にしないし何もしゃべらない。知らない曲だがきれいな音色を響かせてくれる。

おそらく修道院が取り壊しになる以前の思い出をいっぱい抱えて、幸せなことも苦しかったことも心の中で思い返しているんだろう。ああいうおばあさんも、今なら結構重めの病名が与えられるはずだ。写真を撮られたり保護者に配信される不審者情報メールに掲載されて、職質を受けて注意されるかもしれない。

30年前を振り返って、クラスの中に注意力が散漫な子供はたくさんいた。今ならADHD(注意欠如・多動性障害)と診断されるだろう。
授業中にいきなり立ってどこかへ行ったり、授業の最初から終わりまで鉛筆画に取り組んでいたり、基本的に学校の授業では遊んでいる子が多かった。消しゴムをデコピンして弾いてぶつけ合ったり、ねり消しをつくったり、女子はそのころ興味がなかったので知らないが、絵をかいたり勉強していた。各自が思い思いの過ごし方をしていた。

小学校一年の頃、私の周りには、鼻くそをほじったり爪をかんだり、ウンコとチンチンしかしゃべらない子が結構いた。最近親戚にそういう子がいたが、言葉がうまく使いこなせないということで、普通学級にいかず支援学級へ行くことになった。支援学級に行くことは悪いことではない。ただ時代の変化を感じた。昭和だったら元気あふれる子で済んでいたはずが、今は自閉スペクトラム症(ASD)と判定されるらしい。

そのうち、昆虫大好きで昆虫博士と言われている子も、何かしらの病名が付くようになるのではないか。

前に出て音読するとき緊張して泣き出したりした子もいたが、今ならどういう症状名がつくのだろう。Highly sensitive person(HSP)か?

ひとつ安心できるのは、親として行った参観日に子供たちを観察していたら、昔も今も変わっていなかったことだ。着ている服はきれいだし、髪型もちゃんとしているが、やっていることはただの小学生だったので、安心した。

ちょっと人と違っていたら病名が与えられ、人間の振れ幅への許容範囲が狭くなっているのを感じる。なんだか窮屈な世の中になっちゃったなと、でたらめが普通だった昭和世代は思う。どんどん狭くなる普通の枠から外れると疎外される感覚があり、外れちゃいけない圧力が強まっていることを感じる。

田舎で村八分にならないように気を付けていた時代と、やっていることはあんまりかわらないんじゃないか。

よいこともある。昭和っぽい軍隊式の社員研修とか、体育会系的な上下関係とか、そういうめんどくさいことは今はあまり聞かなくなった。
人と違うことに悩んでいる人にとっては、病名を与えられることで、病気だから仕方ないし、治療すればなおせる可能性があるという安心感が得られる。

どちらがいいのかわからないが、昔はひどいこともたくさんあったし、昔はよかったというと悲しくなるから、トータルでみたら、現代のほうが良くなっていると思いたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?