読書について

 もう何年も前の話だが、我が家の台所下の排水管が漏水した。

 我が家は築30年以上の中古木造物件。中古だから当然購入価格は安かった(と言えば安かったのだが、不動産価格はそもそもよく分からない値付けをしているので、実感としてはぜんぜん安かったなんて思えないものである)のだが、5年住んだだけでもシロアリだの雨漏りだのといろいろトラブルが起きる。

 トラブルが起きる度にハウスメンテの方法を学ぶことになる。壁の補修、継ぎ目のコーキング、ウッドフェンスの塗装、植栽の手入れ、そして今回は排水管の漏水を床下に落とすための小細工と、詰まり解消のためにワイヤーブラシの使い方を覚えた。

 そういうのは嫌いな方ではない。汚れたシンク下を掃除しながら「トイレが溢れるよりかはナンボかマシか…」などと思う。

 そもそも大自然では排水管が溢れたも何もない。食べて、食べられて、糞をひりだし、尿を垂れ、産んで、産ませて、死んで、すべて土に還る。粛々と。自然に還らぬものを大地に据えて、やれ排水管が詰まっただの床が汚れただのみみっちく騒ぐのは人間だけである。

 そう考えると昔の土間って自然に近い。シロアリ天国だっただろうけど。

 最近、長塚節の『土』を読んだ。土間などと言うレベルではなく、生活が土に還るほとんど一歩手前の状態に暮らす貧農の物語だ。しかも語られるのは、貧しさに由来する農民の狡猾さ、貪欲さ、利己心、猜疑心であって、ロマン派の詩人が描きそうな歯の浮く自然礼賛ではない。

 この本の出版当時、東京に住んでいた夏目漱石は同作をして「斯様な生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んでいるという悲惨な事実」と述べた。

 いやあ、100年経ったいま読んでも「たかだか100年前の日本で、こんな生活をしていたのか」とびっくりしますよ。それに比べれば現代日本の生活は何と豊かなことだろう。

 漱石は言う。

余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募(つの)る時分になったら、余は是非此「土」を読ましたいと思って居る。娘は屹度(きっと)厭(いや)だというに違ない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えて呉(く)れというに違ない。けれども余は其時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思って居る。参考の為だから、世間を知る為だから、知って己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる為だから我慢して読めと忠告したいと思って居る。何も考えずに暖かく成長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心(ぼだいしん)や宗教心は、皆此暗い影の奥から射して来るのだと余は固く信じて居るからである。

夏目漱石『土に就いて』

 ひるがえって、私は、娘に、そして息子に読ませたい本があるだろうか。

 たぶん、ない。

 私は多くのことを本から学んできた。しかし同時に、多くのことを本から学べていない。

 読書は素晴らしい営みだと思うが、読書は必ずしも人格を陶冶しない。ナチスの高官だってシェイクスピアくらい読んでいただろう。

 子どもたちがもう少し大きくなったら、家の手入れを一緒にしたいと思っている。


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