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心臓に触れる手つきを学べよ

塾で中学生の子とお話ししていて、ふと思ったことをつらつら書きます。

一個前のnoteを読んでフォローしてくださった方が多いので、自語りしづれ~~とは思いつつ、そもそも生活の記録としてnoet書いてたしなと自分を落ち着かせる日々。



学校のディスカッションの授業、どんな心持ちで参加してましたか。
道徳でも、国語でも、英語でも、なんでもいいんだけれど。

私、すんごい好きだったんですよね。あの時間。
特に答えが出ないものについて皆で話し合う(大学に入ってから、この取り組みを構成的グループエンカウンターと呼ぶことを知りました)やつ。

でも、今振り返ってみると、私はただ単純に相手を言い負かすことや自分の意見に賛同させることに悦を感じていただけだったのだと思います。いつかのクラスメイトには本当に本当に申し訳ないね。自戒。どっかでちゃんと謝ります。

ああいう活動が目指しているものって、全員の意見を一致させることではなくて、自分と違う存在を認識すること、そのうえで話し合いという手段は相互理解にとっても重要な術だと学ぶことであると理解するのに、とっても時間がかかってしまいました。

学校教育ってやけに心の一致を掲げがちですが(学級目標がいい例)、別に一致しなくていいやんね。大学に入って、教授に「元気やる気勇気がない子がいたっていい」って言われたとき、なんだか時を超えて救われた気がしてよかったな。普通のことなのだけど、学校ってやっぱり特殊な空間だから、そう思い続けるのは難しかったりするよね。

たまたま住んでる場所が近かっただけで一塊にされて、それらを皆「お友達」と名付けていきなり大切にしなさいと言われてもね。仲良くできない人は存在するし、絶対にわかりあえない心だってあるものです。というか、それが当たり前。
わかりあえない存在同士が共存していくために、ある程度の許容ってやつは一定値必要で、そのラインを決めるために言葉ってやつが存在してくれているんだと私は勝手に思っています。

それを実践で学ぶのがディスカッションの時間だったのかもしれないと、今振り返って思ったりもします。

絶望だよな、あれ。自分と根本的に異なる存在がいることをまざまざと実感させられるのだもの。この30人の教室内ですらそれが起こるなら、地球規模で見たときに自分と全然違うモノの見方をする人間っていったい何人いるの!? って話ですよ。別に多数が正義というわけではないのに、マジョリティに属することができたときに「ああよかった間違ってなかった」と思ってしまうあの気持ちは、自分と根っこから異なる誰かの存在と向き合いたくないからなのかもね。
足元がぐらぐらと崩れて指先がひんやりしていくあの感覚、懐かしい。信じて頼ってきたものが瓦解して、自分の存在すら疑い始めてしまうあの瞬間、今となっては本当に愛しい感覚だな。あまりにも無垢で。

誰がどうこの世界を見ているかで正解なんて無限に移り変わっていくんだし、お前の中ではお前が正解でいいよ。絶対神でいてくれよ、お前だけは。

と、日々自分に思い続けていますが、この考えは自分の身を滅ぼしかねないな~と思うことももちろんあって、そのたびに脳みそアップデートしながら生きています。だけどやっぱり譲れないものとかこればかりは自分が正しいと思うこともたくさんあって、そのたびに床を転がって駄々をこねて生きています。ひどくプライドの高い人間なので、自分至上主義というのは多分もう数年は捨てきれないと思うのだけど、それでいいよな。お前だけはおれを裏切ってくれるなよ。



「自分と異なる存在と向き合うときの言葉の使い方には気を付けたいね」、「でも自分の考えを失いたくはないね」という、過去を振り返っての自戒でした。特にマイナスだと思っている事柄を吐く場合は、刃にならないように入念にまるくまるく形成してから言葉を渡したい。意見交換は相手の心臓に触れる瞬間でもあるから、普段私は到底やさしいとは形容できない人間だけど、その時くらいはやさしくありたい。やさしく、いたいなあ。





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