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私はこの病気とともに生きる



01 症状の始まり

私は大学院卒24歳のリハビリテーションの専門職の理学療法士です。これは私の身体に起こった事実です。話は2023年3月に遡ります。その日も何気なく仕事をしていました。利用者の方へ食事の配膳をしていました。人手が不足しているので片手に一つずつおぼんを持っていました。しかし、配膳中に不思議なことが起きました。左腕の力が徐々に入らなくなりました。左肘を曲げたままにできませんでした。私の意識とは反して左肘が伸びていきました。何とか利用者さんの机まで食事を運ぶことはできました。その後は、いつも通りに理学療法業務ができました。

しかし、左腕の力の入りにくさに加えて左肩の上げにくさや両手の小指のしびれの症状が出現してきました。これは、まずいと思い肩や腕の専門の整形外科病院を受診することにしました。肩や腕のCTやMRIを撮影してもらったが異常が見当たりませんでした。整形外科病院の先生も悩んでいました。もしかしたら首に問題があるかもしれないということで、首専門の整形外科病院を受診することになりました。首のCTやMRIを撮影してもらったが異常が見当たりませんでした。ここでも同様に整形外科病院の先生は悩んでおり、大学病院の神経内科を受診した方が良いとなりました。

その後、神経内科を受診して頭から背中までのCTやMRI、神経伝導速度検査(末梢神経を皮膚上で電気刺激し、誘発された電位を記録し、伝導速度、振幅などを測定することによって末梢神経疾患、脊髄疾患の診断、病態の把握に活用するもの)、針筋電図検査(脊髄にある前角細胞と呼ばれる運動神経以下の運動神経と筋肉の異常を検出するもの)を実施しました。


02 大きな問題と研究の日々

このとき、この症状に加えてある大きな問題を抱えていました。実は私の取り巻く環境が、この当時大きく変わっていました。私は元々指導していただいた教員が大学院の研究室を脱退することになりました。しかも、私はその教員の内容の研究を引き継いで研究をしていました。しかし、その教員がその研究の責任者ということで新しい研究テーマに変更せざるを得ませんでした。これは後日聞いた話で私の研究室の先輩が、その教員に今までの不満を漏らしたそうです。これが引き金となり研究室を脱退することになりました。つまり、私はとばっちりを喰らいました。これは2023年2月中旬の出来事でした。

大学院を卒業するためには学位論文を作成する必要があります。その学位論文の提出まで1年を切っていました。新しい研究テーマを決めて、先行研究を検索して、研究計画を立て、予備実験をして、本実験をして、データを解析して、結果を解釈して、考察して、学位論文を作成して、それを学位論文審査会で発表するという流れになります。私はこの1年で終わらないと思いました。これほど、他者を恨んだことはありません。しかし、他者を恨んでいる暇はありませんでした。

すぐに研究室のボス(研究室のトップ)に相談をして、新しい研究テーマを決めました。そして、新しい研究テーマに関する先行研究を検索して、研究計画を4月上旬までに作成しました。5月・6月は予備実験をして、7月以降は本実験を開始しました。特に夏は必死でした。連日、大学に行き朝から晩まで本実験とデータの解析の日々を繰り返していました。さらに、空き時間には学位論文を作成して本実験とデータの解析と同時並行で実施していました。土日、祝日は関係なく、プライベートもありません。本来、2年間でやるものを1年間でやろうとしているためです。忙しいのは当然のことです。

しかも、私の実験の測定は2日間連続かつ長時間に渡るため時間がかかります。ただ、有り難いことに本実験に参加してくれる被験者の方が多くいました。本当に感謝しかありません。被験者がいないことには本実験ができません。この点で私は恵まれていました。最終的には、12月上旬まで本実験をしました。本実験を終えて安堵した気持ちなどありません。何故なら、学位論文の提出は翌年1月中旬だったからです。最後は気力で学位論文を書き上げて、無事に提出できました。


03 検査入院

学位論文審査会を終えた翌日、私は入院しました。学位論文審査会を終えたという安堵の気持ちは一切ありませんでした。達成感もありません。身体は限界を迎えており、左腕はただの肉片でした。日常生活では使い物になっていませんでした。事実、学位論文審査会において左手でレーザーポインターを持ちながら発表することもできませんでした。そして、入院して直後より検査を実施しました。何度検査をしたのかわかりません。

途中まで検査回数を数えていたが、あまりにも多かったため数えるのをやめました。大まかな項目として、CT、MRI、造影CT、造影MRI、心臓MRI、PET-CT検査、腰椎穿刺、心電図、肺機能検査、針筋電図、神経伝達速度、血液検査、胃カメラ検査、大腸カメラ検査、骨密度検査、視力検査、眼圧検査、眼底検査などを実施しました。特にCT、MRI、造影CT、造影MRIは他の検査より多く実施して、十数回は裕に超えていました。これらの検査から「慢性炎症性脱髄性多発神経炎(CIDP)」「サルコイドーシス」という疾患が原疾患としてあげられました。どちらも原因不明の疾患で本邦の指定難病になっています。

ちなみに前者の「CIDP」は、2ヶ月以上にわたり進行性または再発性の経過で四肢の筋力低下やしびれ感をきたす末梢神経の疾患です。後者の「サルコイドーシス」は、おもに類上皮細胞やリンパ球などの集合でできた「肉芽腫(にくげしゅ)」という結節がリンパ節、目、肺、心臓などの全身のさまざまな臓器にできる疾患です。恥ずかしながら理学療法士でありながら、どちらの疾患も把握していませんでした。まさか、私がそのような疾患になるとは思いませんでした。

前述したCIDPは、ある大学で研究が盛んに行われているとのことで検体を送ることになりました。この検体を採取するために「腰椎穿刺」を実施しました。腰椎穿刺とは脳脊髄液という脳と脊髄の周りに溜まっている無色透明な液体を採取する検査です。具体的な方法は、腰を丸めて腰の位置から針を刺し、背骨の後ろにある脊柱管から脳脊髄液を採取します。この腰椎穿刺は私が理学療法学生の際に神経理学療法学の講義で話を聞いたことがありました。針を刺す部分に局所麻酔をしたが、針を刺された際には麻酔のおかげで痛みは抑えられました。

しかし、針を刺されるにつれて背中にある組織が前方に押し出される奇妙な感覚でした。その後、針を刺したまま脳脊髄液を徐々に採取しました。結局、検査には1時間程度かかりました。検査が終了して、私の脳脊髄液をチラッと見ましたが医学書の記載通り「無色透明な液体」でした。おそらく、人生において自身の脳脊髄液を見る人はかなり少ないと思います。実物を見る以上に得られるものはないと感じた瞬間でした。


04 一時退院

このように様々な検査を受けました。最終的には「PET-CT検査」というものを受けることになりました。PET-CT検査とは、放射能を含む薬剤を用いる核医学検査の一種で放射性薬剤を体内に投与し、その分析を特殊なカメラでとらえて画像化するものです。通常は、がんや炎症の病巣の特定、腫瘍の大きさや場所の特定、良性・悪性の区別、転移状況や治療効果の判定、再発の診断などに利用されます。

私の場合「サルコイドーシス」の可能性が高く、確定診断を付けて治療しやすくすることを目的として病変の一部を採取(生検)できる箇所がないかをPET-CT検査にて確認することになりました。このPET-CT検査は私が理学療法学生の際にがんリハビリテーションの講義で話を聞いたことがありました。「ついにPET-CTまでやることになったのか」と落ち込みました。しかし、私が入院していた病院にはPET-CT検査の機械がなく、さらには大学院の学位記授与式もあったため、一度退院して別の医療機関でPET-CT検査を受けることになりました。


05 治療入院

このPET-CT検査に加えて、大学院の学位記授与式もあり約1ヶ月後に再び入院しました。しかし、これだけ検査をしても確定診断には至りませんでした。入院後もいくつかの検査を実施しました。大腸カメラ検査で7ヶ所ほど、組織を採取したが異常はありませんでした。さらに、一時期はカテーテルを用いて心臓の筋肉(心筋)を採取するという話が出ましたが、心筋には異常はなかったため実施しませんでした。両方の神経根に病変がある可能性が高かったですが、もう生体から取れる組織がありませんでした。さらに、ある大学へ送った脳脊髄液の検体の結果も届き「CIDP」ではありませんでした。

以上のように造影MRIの左上肢の神経根の肥厚所見および血液検査(ACE・可溶性IL-2Rの数値上昇)の結果から、「サルコイドーシス」となりました。この診断名に至るまでに1年かかりました。これだけ多くの検査をしても確定診断になりません。そのような疾患もあるのだと痛感させられました。しかし、世の中には診断名の付かない疾患も存在すると聞きます。また、診断名が付いただけでも良いと思うしかありません。

その後、すぐにステロイドによる治療が始まりました。はじめに3日間連続の点滴によるステロイドパルス療法を実施しました。3日間のステロイドパルス療法が終了しました。この時点でも両手のしびれが軽減したのを自覚しました。そして、翌日より経口ステロイド療法に移行し、服薬量は60mgだった。錠剤量で換算すると1錠5mgを朝8錠、昼4錠となります。この服薬する度に、「頼む、治ってくれ、良くなってくれ」と思いながら飲みました。

ただし、この症状の改善の代償としてステロイドによる副作用が出現してきました。私の場合は、不眠症がひどいです。睡眠薬を服薬しても何度も目が覚めます。睡眠薬を追加しても何度も目が覚めます。しかも、私は4人部屋だったので夜になる他の患者さんのいびきがうるさかったです。一度は個室への移動も考えました。しかし、一日あたりの個室代が高いことから断念しました。

その後、「経口ステロイド療法」と治療前より実施していた「リハビリテーション」のおかげで左腕や両手指の筋力低下や両手指の感覚障害が改善してきました。以前はペットボトルのキャップを開けることができなく「ペットボトルオープナー」という機器を借りてキャップを開けていました。しかし、両手指の筋力低下が改善してきたおかげで、そのような機器を使用しなくてもキャップを開けることができるようになりました。

また、リハビリテーションと自主トレーニング以外の時間は、私の疾患に関する論文や理学療法に関する論文を読む、読書をする、TVerやAmazon primeでドラマやアニメを見る、noteの記事を書く、TVを見る、気になることをインターネットで調べる、写真の編集、退院後したいことリストの作成、英語の勉強、病院内の散歩をしました。

朝は5:00に起床していました。起床後、すぐにその日の症状の変化をApple社の純正メモアプリに記載していました。その後、6:00まで読書をしていました。6:00を過ぎると病室の電気が付くため、洗面所へ行き洗顔して、髭を剃りました。それらが終わると病棟の奥にある廊下へ行き、日光浴とストレッチをしました。その後、病室へ戻り夜勤の看護師さん朝食が来るまで再び読書をしました。朝食後は、すぐに歯を磨き、ステロイドを服薬していました。そして、英語の勉強を始めて9:00近くになると主治医の先生が朝の回診に来ていました。回診が終わった後も英語の勉強を再開して、10:00まで行っていました。その後は、論文を読んだり、読書をしたり、検査がある日は検査をしたりしていました。

12:00になると昼食が来ました。昼食後も、すぐに歯を磨き、ステロイドを服薬していました。そして、13:00まで再び読書をしていました。13:00からは、リハビリテーション室へ移動して、理学療法士と作業療法士の方によるリハビリテーションも実施しました。理学療法士の方にはトレッドミルによる体力維持、作業療法士の方には上肢(肩から手までのこと)の筋力トレーニングが中心を実施しました。特に左腕や両手指の筋力低下は著しいため、筋力トレーニングが大変でした。自分では力を入れているつもりでも、力が出ませんでした。

毎日必死にリハビリテーションに取り組みました。日常生活を取り戻すためにです。それ以上のことは求めませんでした。これらの理学療法士と作業療法士によるリハビリテーションの時間以外に自主トレーニングをするために、セラバンド(ゴム製のトレーニング機器のこと)と洗濯バサミを借りました。セラバンドは肩周り、洗濯バサミは手指の筋力トレーニングのために使用しました。

18:00になると夕食が来ました。このときが一番虚しくなりました。沈む夕日を見ながら一人寂しく食事をしました。「俺って何やってんのかな」、「この病気って治るかな」、「いつ退院できるのかな」、「いつまでこの生活が続くのかな」、「出かけたいな」、「春だから桜を見たいな」そのようなことを考えながら食べていました。そして、消灯後は枕元にあるベッドライトの灯りで読書をしました。周りの人の睡眠を阻害しないようになるべく灯りを暗くするようにしました。その後、21:30頃に睡眠薬を服用してからも読書を続けて、ウトウトしてきたら寝るようにしていました。

そのような入院生活を過ごしました。そして、退院2日前に経口ステロイド療法の服薬量が60mgから50mgへ減少しました。錠剤量で換算すると1錠5mgを朝7錠、昼3錠になりました。その後、無事に退院しました。2月の検査入院と3・4月の治療入院を合わせると57日間の入院生活になりました。この退院を迎えられたのは、私の治療に関わった医療者の方々をはじめ家族の存在が大きかったです。感謝しかありません。


06 自宅療養

無事に退院して、自宅療養へ移行しました。退院後も入院中のリハビリテーションの内容を「自主トレーニング」として実施しました。この際、トレーニング時の動作を確認する方がいないため、iPadで動画を撮影しながら実施しました。この理由としては、正しい運動方向でトレーニングができているのか、代償動作(機能障害が存在するため本来の動作や運動ができず、代わりの機能や方法を用いてその動作や運動を遂行しようとすること)が起きていないかなどを確認するためです。さらに、せっかく一生懸命トレーニングをしても、適切なやり方で実施しないとトレーニング効果の減少やケガを招く可能性があります。そのため、動作を確認するために動画を撮影することにしました。

さらに「早朝散歩」をすることにしました。毎朝5:30に起床して、30分程度実施します。早朝は人通りや車の交通量も少ないため、とても静かです。聞こえてくるとしたら、鳥の鳴き声くらいです。何かを考えるときに適している環境だなと思いました。実際、早朝散歩で自身の思考が整理されたり、新しいアイデアも生まれました。ただの散歩をあなどってはいけないなと実感しました。

また、ステロイドの副作用として生じていた「不眠症」が続いています。夜中に何度か目が覚めることや早朝に目が覚めることもしばしばあります。しかし、退院したこともあり、それらの頻度が減少しつつあります。一方、無事に退院できたものの自宅療養ではステロイドによる副作用の弊害をさらに実感しました。具体的には「食事制限」「感染予防」です。

「食事制限」では、お酒が飲めない、お刺身などの生ものが食べられない、暴飲暴食や間食を控える、糖質の多いものを摂りすぎないことです。「感染予防」では、感染症にかかりやすく治りにくい、人混みを避けることです。いつもできていたことができなくなるのは辛いです。苦しいです。

さらに、自宅療養は時間的なゆとりができるため、自身と向き合う時間でもあります。これは思った以上にしんどいものがあります。「これからどのように生きていくか」、「仕事はできるのか」、「自分は何をしたいのか」などを考えます。このような「生き方」というものは数日程度では見えてきません。実際、私にはこの先が見えていません。わかりません。ここには時間をかけていきたいと思います。

また、私の主治医の先生から「一度サルコイドーシス専門の医療機関を受診して意見をもらった方が良い」ということになり、他の医療機関を受診しました。その医療機関を受診したところ、すぐに「難病医療費助成制度」の話が出ました。難病医療費助成制度とは、難病の患者に対する医療等に関する法律に定める指定難病の診断を受けた方のうち、一定の要件を満たす方について、ご本人やその家族の所得の段階に応じ、医療費等の自己負担分を助成する制度のことです。

これを申請するかどうかはよく考えました。理学療法士として復職する際にネックになるのでないかと思いました。しかし、私の病気である「サルコイドーシス」は全身の様々な臓器に病変ができる可能性があります。さらに一度病気が完治しても再発する可能性もあり、最悪の場合入院する可能性もあります。そのため、治療費がかかる可能性があります。

原因不明の病気であるため、今後何が起こるか誰も予測ができせん。トンネルの中を歩き続けているような感覚です。何か起きてから行動するのでは遅いため、難病医療費助成制度の申請をしました。まさか、自分が申請する日が来るとは思いませんでした。人生何が起きるかわからないことを痛感しました。


07 今思うこと

今振り返ると命懸けの大学院生活でした。しかし、私が思うに学位というのはそこまで大きな効力はないと思います。ただの名刺みたいなものでしかないと思います。結局のところ、その環境で何を得たかが重要だと考えます。学位を得ることは本質ではないと思います。1年間で研究成果を出さなければない状況下に置かれ、そしてサルコイドーシスの発症が重なりました。最悪の状況でした。しかし、そのような状況下でも私を助けてくれる人や支えてくれる人がいました。本当に感謝しかありません。「捨てる神いれば拾う神あり」とはこのことではないしょうか。絶望の中に光が射すときほど、その光が強く美しく見えると思いました。

また、実際に入院して思ったことがあります。他者の気持ちは一生理解することはできないということです。私は容易に「その気持ちがわかります」なんて言えないと思いました。その気持ちは当事者にしかわかりません。むしろ、容易にわかって欲しくないです。おこがましと思います。そして、この病気になったことの解釈はわかりません。どのような意味を持つのかもわかりません。もしかしたら、そのような日は来ないのかもしれません。むしろ、求めてはいけないのかもしれません。しかし、何か意味を持たせないと日々をやっていけないのも紛れもない事実です。

さらに「よく過去を振り返ってもしょうがない」という人がいます。私はこの考えについて、半分正解で、半分間違っていると思います。過去を振り返っても何も変わりません。しかし、過去の自分と比較して勇気づけられることがあります。私の場合、診断名がなかなか付かず複数の病院を受診したことや入院期間中の苦しくもどかしい日々と比較することで、「あのときよりはマシだな」と思うようにしています。

また、病気になると考え方が変わると聞きますが、本当の話です。「生きる」ということに対する捉え方が変わりました。「何気ない一日が終わったな」と思わないような一日の過ごし方をするようになりました。現在も治療は続いています。症状は改善されつつあります。しかし、いつ症状が悪化するかわかりません。誰にも未来はわかりません。だからこそ、今という時間を必死に生きます。大切に生きます。大事に生きます。

 私はこの病気とともに生きる。


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