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私たちは誰かを許容し自分を愛する
「自分には関係ない」「自分は別に困らない」そうやって私たちは、ある物事に対して目を背けているのではないだろうか。
もしくは気づいていないのではないだろうか。
先日、『正欲』という作品を読んで観た。この物語は、現代を生きる僕に吹き矢が刺さったような感覚になる作品だった。
主人公は「あの人」という認識はなく、登場人物一人ひとりに物語がある。
そんな中で、特殊な性や性的指向がある人たちが登場する。彼らは、一般的に存在する「フツウ」という場所から排除されている。いわゆるマイノリティーである。
そんな世界で生きる者がある日、自分と同じような人に出会う。そこでの会話でこんなセリフがある。
「この世界を歩いてるとさ、いろんな情報が飛び込んでくるじゃん。あれってさ、みんなあした死にたくない人っていうか死なない人のためのものじゃない?あした生きていたくない人とか死んでもいい人のためのものってないよね?ああいう流れに乗るのが社会の一員ってことだよね。」
私たちはたまたま生きやすい社会に生まれてきただけの多数派にいる。そんな中で無理して生きている人もいる。また、完全に排除されている人もいる。
「僕はマジョリティーだ」そんなことを思っていたが、実は無理して、社会に矯正されて生きてきたのではないだろうか。ということは、やっぱり生きやすい多数派の人間ではないのでは?同時にそんなことも考えた。
さらに
「正しい欲とはなんだろうか」
普通に生きていたら考えないであろう問いも考えた。
正解はいまだに分からない。
また、
「多様性、多様性」と言われるこの時代に
「そういう人もいる」ではなく「そこに一つの人生がある」と、、、
それが多様性のスタートなのかもしれない…
最後に
いま、私たちにできることは、周りのいろいろな人に関わりいろいろな状況や価値観に触れていくこと。そして自分と向き合うこと。そして自分以外の人や物を一人、一つとして見ること。全部は理解できなくともせめて学ぶことくらいはできるだろう。
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