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シュタイナー/アニー・ベサント

神智学協会はブラバツキーによって、
1875年、ニューヨークに設立された。
この頃、シュタイナーは学生であった。

彼はその後、あるイタリアの貿易商のもとで家庭教師を勤めている。
エルンストという少年だ。
シュタイナーにとって極めて幸運なことに、この少年の主治医が、
世に有名な精神科医ブロイラーであった。
この当時、ブロイラーはフロイドの先達でもあった。

ジグムンド・フロイド…は後に『無意識』を発見する。
この後に、彼はベルダパッペンハイムという女性の解離症状…当時のヒステリー(子宮が動く・というラテン語からこの言葉は来ている)を研究していた。

日本でフロイドを紹介したのは、
中村古峡という教育学者だ。

フロイドはもともとウナギの生殖腺の研究をしていた。
彼は解離症状の原因を鼻孔の奥にある…という仮説に達している。
これが、世にいうフロイドの誤診となる。
彼は耳鼻咽喉科医のフリースとともに、
ヒステリーの治療に、コカインを使っていた。

勿論、今日では知られたことだが
これは最悪のミスとなる。

彼はこの後にフリースと決裂して、『夢』の研究を始める。
少し、フロイドの夢分析からは時代が変わるが、『無意識の病理学』(金剛書院)からある『夢』のサンプルを出してみる。

…彼女は、夢の中に鏡とそれにうつった無数の小石を発見した…。

この一節である。
これは鏡と石…の2つと、
『鏡に小石がうつる』
という、主語と述語で世界が完成している。
フロイドならばここで、
小石は男性器を意味し、鏡は女性器を意味する…こう解釈する。

もう一つ別の解釈もできる。
鏡に小石がうつることを認識する、夢をみている本人の存在が、定義されている…とも。

こっちは、ジェンダーの非対称性も意味に含まれている。また、論旨の飛躍かもしれないが、数秘の3がここにある。
デカルト的な解釈である。

とりあえずわかりやすく、フロイドの類型夢の解釈で話をすすめると…夢見者の彼女は、無数の小石(男性器)を受け入れている…鏡(女性器)となる。

これが、フロイド流の解釈である。

ブロイラーは精神科医の原点とも言える(歴史を遡ればピネルという医師にたどり着くが)。
彼のもとで、後に分析心理学のカール・グスタフ・ユングは統合失調症特有の幻聴、幻覚の研究に没頭していた。

ユングは第一次世界大戦中、フロイドとの決裂により、自殺の誘惑にかられながら、元型論にたどり着く。

シャドウ、ペルソナ、ニグレド、
アニマ、アニムス、トリックスター

こういった、パターン化された経路を人間の精神、意識の変容は辿る…という。

この動きそのものは、タロットカードの意味と酷似しているという。
ワーグナーの『さまよえるオランダ人』に船乗りの歌のフレーズが出てくる。
このタイミングというのが、妙にトリックスターのパターンに似ている。

嵐に呑まれる船の中から、この『船乗りの歌』が対位法で出てくる。

ルドルフ・シュタイナーはユングが後に『ユラノス会議』を主催した時代には生きていないが、
フロイドが『夢判断』…trauma trippe を世に出したとき、ベルリンに於いて重要な出来事をなしていた。

神智学協会ドイツ支部を立ち上げたのだ。
すでにブラバツキーがこの世を去ってから十年が経過していた。
神智学協会はこの時期以前に分裂の兆しを見せていた。
九十年代、シュタイナーはブラバツキーに全く興味を示さなかった。
彼自身はグノーシス主義の影響からゲーテ研究を成し遂げたが、それは当時の自然主義文学に対する、挑戦であった。
フローベール、ゾラ…の自然主義文学の中にやりきれない唯物論を見出していた

彼は、ドイツロマン派の再研究から新しい思想を提起する。
これが神智学ならぬ人智学であった。

しかし、後に彼はシークレット・ドクトリンの翻訳家にして神智学協会の貢献者たるハルトマンの誘いにのり、
神智学協会ベルリン支部を立ち上げる。

この時、シュタイナーは
イギリスの神智学者にしてインド開放運動の一翼を担っていた、
アニー・ベサントに奇妙な言葉をかけられている…、

『神智学協会の目的は、イギリスにおいて達成されてます。神智学はあなたの言うところの観念ではないと、私は考えます』

これをイギリス人独特の皮肉と捉えるべきか?
だが、アニー・ベサントのこの言葉は、
後のシュタイナーの運命を暗示していたのだ。

問題はこの数年後に起こった、日露戦争に端を発していた。
司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』を読んだことがある人なら誰でも憶えていると思うが、
明治帝国陸軍の明石元二郎がこの後、東ヨーロッパで対ロシア工作を行っている。
ロシアのロマノフ王朝を後に崩壊に至らしめる、ロシア社会主義化工作のことだ。

これにより、明治の帝国陸軍はロシアの政局を分断して、ニコライ2世に和平工作を進めていく。

だがこの共産化運動の火種はロマノフ王朝を大いに悩ませた。
この結果、ロシアは第一次世界大戦に参加せざるを得なくなる。

中央ヨーロッパ…特にユーゴスラビアは、第二次世界大戦中から1980年までチトーによる、いはば独裁…によってのみまとめざるを得なかった。

これは、ウィンストン・チャーチルが1944年、ノルマンディー上陸作戦の後にパリを開放した米英軍の参謀に語った言葉だ。
この年の秋、つまり世にいう『マーケットガーデン作戦』の後にチャーチルはクレタ島からアテネのルートで英国軍はハンガリー、ユーゴスラビア方面に睨みを効かせる橋頭堡を築こうとした。

この時、チャーチルがあてにしていたのが、ヨシフ・プローブ・チトーの軍事政権であった。
スペインの独裁者フランコ、イタリアの独裁者ムッソリーニの失脚、これを傍目に彼はヨーロッパ百分率というある意味でのヨーロッパでの戦争を抑止するシステムを考え続けていた。

この1944年当時、旧ソ連に対する兵站線を保証するものは、ユーゴスラヴィアとルーマニア


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