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負けを認められる大人でありたい


一ヶ月前ほど前に遭遇した、ある場面がとても印象に残っている。
確かお昼過ぎの数学の演習の授業だったような気がする。さすがに大学レベルの数学となると、基礎的な内容とはいえど一人で演習問題を解くのは困難である。よってほとんどの人は数人のグループで問題に取り組む。
その日は偶然いつも一緒に授業を受けている友人が欠席だったので、渋々一人で問題にあたっていた。しかし、やはり途中で行き詰まって誰かに助けを求めようと耳を澄ます。すると、後ろの二人組の相談する声が聞こえてきた。

A「俺はこれもう解けたんだけど、そっちはどう?」
B「ちょっとまだかなー、でもここって、こっちの式変形が正しくない?」
A「あー、そういう解き方もあるのねー」

どうやら自信ありげに話かけたAの方が間違っていたらしい。

また少し時間が経って

B「ここできた?」
A「これは逆行列が0かどうかを考えればいいだけでしょ。簡単じゃん。」
B「でも、aの値で場合分けしないとだめじゃない?」
A「あーそういうことね、勘違いしとったわー」

またしても、Aの方に誤りがあったようである。

自分の表現力の無さを恨むばかりなのだが、要はAはBに対して常に高圧的に接して、さらにはBに指摘されても、それとなくはぐらかして、自分の間違いを正面から認めようとは一切しないのだ。Aはプライドが高いやつなのだ。Bはどうやらいいやつそうなので、それを我慢しているようだったが、私はAとはなるべく関わらないことを心に誓った。


こんな調子でAを批判してきたが、かく言う私もプライド高い人間だった。(今はそうでないと信じたい。)
そこから変われた一つのきっかけは「超えられない壁の存在」を知ったことだろう。
勉強にしろ、部活動にしろ,、何にせよやはり努力ではどうにもならない壁は存在するのだということを高校3年間を通して叩きつけられたような気がする。

プライドを捨てる、つまり負けを認められることが増えてから自分の中で変化したことが二つある。

一つは人のよいところに気がつきやすくなった。芸能人やスポーツ選手に競争心を抱く一般人などほとんどいないだろうから、素直に良さや凄さを認められる人が多いだろう。しかし、身の回りにいる人たちには知らぬうちに競争心を抱きがちなものである。そうなると、その人の良さは見えづらくなるかもしれない。ここで言いたいのは、何も競争心が悪だということではない。競争心は人が向上するために必要である。が、ただ競争し続けるだけではいけない。その競争の結果を適切に認められる強さを持ち合わせるべきだということだ。


二つ目は交友関係がより深いものになったということだ。これは一つ目にも関係しているのだが、まず他人のよいところに気づけるようになったから、その人に対してリスペクトを以て接することができるようになった。   そしてもう一点は、高圧的な態度や自分が上手にでることは相手を不快にさせたり、萎縮させたりするだけでなく、確実に自分の首も絞めているということに気付けた。交友関係は初めは下手に出た方が絶対にうまくいく。これはなにかのテレビで見た「芸能界は好感度が低いほうが生きやすい。それがリスクヘッジにつながるから。」というやつと同じだと思う。
(まだ二十歳にも満たない若造が偉そうに語ることでもないが、、、)


年齢を重ねるにつれ、立場も自然に上がっていくことが多いだろうから、負けを素直に認めることはこれからどんどん難しくなるだろう。それでも私は負けを認められる大人でありたい。

ちなみに最近、塾講師のバイトを始め、時々中学受験の小学生を任される。自分は中学受験の経験が無いので、その子たちに感心させられることも多い。
私は小学生相手に負けを認めるべきだったのか。それとも塾講師としての体裁を保つべきだったのか。答えは明白である。


もし、最後まで読んでくれた人が本当に嬉しいです。意外にも書きたいことがたくさん浮かんできたので、継続できるように頑張ります。





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