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劇団四季「ひばり」感想━"魔女"はいない。"自分がコントロールできない他者を怖がる人"がいるだけ

 劇団四季「ひばり」と「WICKED」のマチソワで2024年の観劇初めをしてきました。歴史を題材にしたストレートプレイと、おとぎ話の前日譚として作られたミュージカルという対極のような作品ですが、どちらも「魔女を殺せ!」と叫ばれるシーンが印象的です。なんなら、同じく浜松町で上演されている「アナと雪の女王」も。というわけで初見だった「ひばり」の感想を書いていきたいと思います。

ストレートプレイに不慣れすぎた

 2022年の夏にノートルダムの鐘を見て劇団四季に本格的にハマって以来、ミュージカルは何作品か見てきましたが、四季のストレートプレイは初めてでした。というか、そもそもストレートプレイ自体あまり見た経験がありません。去年観劇した演目を振り返ると、ストレートプレイと呼んでも良さそうな作品は「セトウツミ」と「キングダム」でした。どちらもドラマ版や映画版を見てもともとストーリーを知っていましたし、喋っている以外の時間もかなりあったので置いていかれることはなかったです。

 一方、「ひばり」はひたすら大量の言葉の波が押し寄せてくるような感じでした。一瞬わからない言葉に「ん?」となるとしばらくついて行けなくなってしまい、集中力がかなり必要でした。集中しよう集中しようと頑張っているのについていけなくなると、うっかり眠くなったりもしてしまいます。慣れが必要だ……と頭を抱えました。もっとしっかり理解したい作品だったなと思ったので、またこの作品を見る機会があったときについていけるよう、今後はストレートプレイもたくさん見たいです。

浅利慶太の思想だと思っていたけど……

 四季の会会員になって1年半。盛大な勘違いをしていたことに今作を見て気づきました。劇団四季と浅利慶太にならって言うと「人生は素晴らしい、生きるに値する」という人間賛歌の言葉ですが、あれは浅利慶太と劇団四季が生み出したものではなかったですね。ヨーロッパ人がルネサンスの頃に教会の権威から自分たちを取り戻そうとしていた頃からずっとずっとあったものだったと思い出しました。

 というのも、「ひばり」の前情報を「ジャンヌダルクの話らしい」ということ以外ほぼ何も入れずに見たので、途中まで「浅利慶太が書いたんかな」とふんわり思っていました。劇団四季の理念にもすごくあっていたというのもあります。また、これはフランスでのジャンヌダルクの評価にあまり詳しくないまま勝手に思ったことなのですが、ジャンヌがものすごく人間らしく、いい意味でジャンヌの人生があまりドラマティックではないというか、やたらと現実味があったので、フランス人ではない人が描いたのではないかと思ったのです。ジャンヌダルクはフランスではもっと英雄なのではないかと。

 しかし、劇中に描かれるジャンヌダルクと教会の対立を見て思い出しました。「ひばり」に描かれる裁判はあくまで戯曲ですが、そもそも教会の権威へのカウンターだったルネサンスの中心思想はヒューマニズムでした。人間は弱くて醜い、でも強くて美しい。今の在り方でいいんだ。劇団四季が掲げる理念ももとを辿ればヒューマニズムでしょう。人間の持つ醜さも美しさもあっていいものだとして裸体の彫刻を作るのも、異端を恐れ糾弾する司祭が描かれた戯曲を上演するのも、人間賛歌です。

 劇団四季の70周年特設サイトにはそういえば、「ひばり」作者のジャンアヌイとジャンジロドゥの作品から劇団四季が始まったことが書かれています。浅利慶太はヨーロッパの人々が綿々と表現し続けてきた人間賛歌を自分なりの方法で日本に持ち込んだうちの1人だったのでしょう。

 フランスの演劇を見つけて日本に持ってくるほど愛した学生なら、「ひばり」に描かれる、人間らしい少女vs教会の物語を見て「一神教の宗教にあまり馴染みがない日本ではもしかすると理解されないかもしれない」と思い込んでしまいそうです。しかし、浅利は相手が教会かどうかに関わらず何か権威的なものに対して自ら思考し立ち向かっていく構図はどこにでもあるとわかってこういう理念を掲げたのかもしれないと思いました。キュレーターとしての浅利慶太のすごさを感じました。1957年に日本初演された物語にすでに描かれていた"人間の醜さと美しさ"を、ディズニーやその他のブロードウェイ作品に見つけたりオリジナル作品として作ったりしながら時代が変わっても届けつづけている劇団四季はものすごくブランドがしっかりしているんだなと思いました。

 一方、浅利慶太にはそこそこ権威的なところがあった印象です。四季の特徴として有名な「母音法」は四季にいるアジア系の俳優のなまりを均質化するのに有効だったというエピソードを読んだことがあります。権威と少女の戦いが描かれた作品を70年たっても大事にする劇団の創設者なのに。いったいどんな時期に何を見つけ、何を考えたのか、浅利の人生にかなり興味が湧きました。劇団四季70周年記念上演作の感想としてここに行きついたのはなかなかおもしろいです。

魔女がいるんじゃない、"魔女"を怖がった人がいるだけ

 「ひばり」でもっとも素晴らしいと思ったのは、2幕終盤のジャンヌの牢屋での独白のシーンです。実は、1幕を見ている時、うーん……これはあまり好みではないかも……と思ったのですが、2幕で印象がかなり変わりました。

 1幕まで、まるでジャンヌが"男たちの人生を翻弄する、手玉に取る無自覚魔性の女のように描かれていてハラハラしました。とくに、立場のある男性をファーストネームで呼び、田舎娘であることを認めながらうまく乗せていくジャンヌはいわゆるマニック・ピクシー・ドリーム・ガール(=悩める男性の前に現れ、そのエキセントリックさで彼を翻弄しながらも、人生を楽しむことを教える"夢の女の子")のようでした。

 なので、いったいジャンヌに翻弄された男性を批判する気なのかジャンヌを批判する気なのか見えてこず若干もやもやしたのです。幕間で友だちに会い、1950年代のフランスの戯曲だと教えてもらったのですが、そこでシャルル・ド・ゴールに人気があった時代の作品が"シャルル"をちゃんと批判するのかな……?と思いました。(ちなみにシャルル役の俳優さんのお芝居がとってもチャーミングで1番好きでした。見たことある気がする、と思って振り返ってみたら、バケモノの子の一郎彦役を拝見したことがありました。)

 しかし、2幕の前半の「私は黒いものを白とは言えない」のあたりと、独白のシーンでほっとしました。この物語の道化は教会の権威を揺るがしそうなものや自分たちの立場に取って代わりそうなものを恐れる側だとはっきりわかったからです。禁欲的であることを理想とするあまりむしろスケベオヤジみたいな発言をしてしまう(どこかで見たような🔔)裁判官や、ジャンヌが屈することを望む人々。それらに対し、一度は意志を曲げてしまうものの、牢屋の中で自分を取り戻して、信念を持ったまま火刑されることを望むジャンヌ。ええ〜〜!1950年代にここまで気づいて描いてる人がいたんだ!とすごく嬉しくなりました。

 創作物に出てくる女のキャラクターは両極端です。要するに、ヒロインか悪女かです。清純で可憐な子か、謎の力を使ったり男を翻弄したり悪事を働く女かです。人気作で言うと、シータかドーラか、クラリスか不二子ちゃんか、という感じでしょうか。

 私の嫌いな言葉に「よい女の子は天国へ行ける。悪い女の子はどこへでもいける」というのがあります。私は女の子を(男にとって)よい女の子と悪い女の子の2種類だと思っている時点でナンセンスだと思うのですが(メイ・ウエストという女性の言葉なので、もちろんカウンター的な意味だとは思います。2020年以降森元首相の発言を受けて「わきまえない女」という言葉を使う女性があらわれたように。)、「ひばり」は"悪女が実は普通の女の子であり、悪女にした(悪女だと思い込んだ、決めつけた)のは周りである"ということを描いていると思います。

 人智を超えた存在として描かれるものは、人智を超えた存在そのものではなくそれを恐れるもの側の問題であることが多いです。私は神社が好きで、御朱印張を3冊使い切って4冊目に突入しているのですが、平将門が祀られる神田明神や菅原道真が祀られる全国の天満宮に人気があることを、平将門や菅原道真自体のパワーだとは思っていません。彼らに対して身に覚えがあり、人間だった彼らが怨霊になるだろうと恐れ、厚く祀った人たちがいて、その人たちを見てご利益があるらしいと信仰を続けた人たちがいるから今もパワーのある神社として人気があるのでしょう。怪奇現象もだいたいそういうものです。

 創作物に描かれる女がワン(というかざっくりツー)パターンなのも、男にとって都合のいい女か都合が悪い女かの2パターンしか、描く側が描けなかったからだと思います。

 アメリカvsイラクの時代に作られ、一方的な見方を批判するべく悪い魔女の学園生活を描いた「ウィキッド」でも、ディズニーが王子様を必要とせず女の子同士の連帯で問題を解決するプリンセスを生み出した「アナと雪の女王」でも、「魔女を殺せ!」と叫ぶ、恐怖に囚われ焚きつけられた人々が登場します。彼らにとってはエルファバやエルサは自分たちには予期できない行動をして自分たちを脅かす存在に見えます。エルファバやエルサはヒロインなので、視聴者は彼女らの人間らしいところをよく知らされています。一方、民衆たちにとってはただただわけもわからず自分たちを脅かす存続なのです。

 その点、「ひばり」では、ジャンヌがこれまで自分がしてきたことを語ります。表面的に言ったことやしたことを1幕で語ってから2幕でジャンヌの思いが語られていくので、一瞬観客である自分が民衆側、法廷にいる人々側のような感情を抱くのです。

 さて、ジャンヌの物語は火刑で終わりません。裁判でまだシャルル7世の戴冠式のことを語っていなかった。そこをやらないと、となんとも戯曲らしいメタな終わり方をします。そのまま切ない終わり方にすれば話が綺麗に終わるような気がするのに無理やりハッピーエンドっぽくしてしまう感じが「マイフェアレディ」っぽくて少し混乱しました。「マイフェアレディ」も初見の時は「イライザ帰ってくるんか〜〜〜い!この2人、人生であと何回同じケンカするんかな……大丈夫そ??」と脳内で大騒ぎしてしまいました。

 とにかく、2024年の頭に2作魔女狩りの話を見て、今年も抑圧に負けない女でいようと思いました。大地震や飛行機事故が起こり、緊急時の現場で女性が抱えるハンデを無くそうと声を上げる人々が多くあらわれました。そんな人々を恐れ、嫌がり、なんとしてでも自分の理解の範疇に収めようとする臆病な人々を年始からネット上でたくさん目にしてクラクラしていました。そんな中で見た「ひばり」と「ウィキッド」はかなりスッとさせてくれました。

余談①

 魔女が出てくる作品を見ると必ず「魔法使いの約束」を勧めたくなってしまうのですが、「ひばり」が好きな人は絶対に「まほやく」も好きだろうなと思いました。「まほやく」にも、魔法使いと魔法使いを恐れたり好奇の目にさらす人間たちの関わりが描かれます。

 「まほやく」に登場する魔法使いの王子様は、魔法使いとして生まれたことで実の母である王妃から冬山に捨てられてしまいます。しかし、世界最強の魔法使いに拾われて生き延びます。最強の魔法使いの城で幸せに育った王子様は、王妃の苦しみを慮れる好青年に成長するのですが、「自分を捨てた王妃を許せるなんて、魔法使いは人間の心がなくて恐ろしい」と揚げ足取りのようなことを言われてしまうのです。

 この王子様と王妃に関するとあるエピソードに、もしかして「ひばり」からのインスパイアだったのかな……?と思うものがあります。また、この王子様の魔法使いの国の建国の歴史には、まさにジャンヌダルクがモデルになったような魔法使いが登場します。「まほやく」は、さまざまな童話や文学作品のモチーフが散りばめられているので、観劇が好きな人はかなりハマると思います。王子様の魔法使いはアーサー、最強の魔法使いはオズ、ジャンヌダルクのような魔法使いはファウストという名前なのです。

興味が湧きましたらぜひアプリをインストールしてみてください!

余談②

 「ひばり」を見ると、ますます「ウィキッド」のフィエロを好きになりました。The 体制側、マッチョ、という感じの男の子が、ヒロイン2人に愛されるイケメンキャラとして登場しますが、彼は自分が頭を使って今まで見てこなかったものを見て寄り添うことに幸せを感じていくのです。こんなに祈りが込められた素敵なキャラクターもなかなかいないと思います。

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