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イザボー感想━日本オリジナルミュージカルをつくって輸出しようと思っているなら気を使って欲しいところ

 ミュージカルイザボーを観劇しました。個人的にはハマりませんでした。説明の言葉が詰め込まれ印象に残る歌詞のない曲も、音量や光量がずーっと強い感じもちょっと辛かったのですが、なによりも、その脚本にその時代設定は合わないでしょう!?とどうしてもツッコみたくなってしまいました。というか、もはや脚本に怒りすら湧いています。出演者の歌唱力、演技力の素晴らしさをもってしても「見て良かった」とはあまり思えない作品だと感じてしまいました。なぜなら、Musicals of Japan Origin Projectとうたいながら、海外に輸出するのは危険では?と思うほど「国」という概念に対して無神経だったからです。

 望海風斗さんと甲斐翔真さんをはじめとするキャスト陣はあまり良くない会場の音響をねじ伏せていて凄かったです。

※歴史について書きますが、あくまで私の理解の上での表現です。説明が足りていない点や誤解もたくさんあるかと思いますので気になった方はぜひ調べてみてください。ご指摘も大歓迎です※

「悪女がいた」のではなく「悪女として語られた」形式のストーリー

 ウィキッドやエリザベートを想起させる、人々のイメージのなかのヒロインと実際のヒロインのギャップを主軸にしたストーリーです。「フランス最悪の王妃」というキャッチーな言葉で語られる彼女は、実際のところどうして田舎娘から「最悪の王妃」になっていってしまったのか。愛する夫である王が精神障害を発症してしまっても、お飾りやカードとしてしか自分を周囲に認めてもらえないもどかしさの中で見つけた手段をとる決意をしていく物語です。イザボー語り手として、息子と息子の結婚相手の母が登場します。

 イメージ上のヒロインと実際のヒロインを並べて、「悪女」がいたのではなく「悪女」のようなものを作った環境をみせていく展開は、女性の主体性について表現するのによく使われます。「はにかみ屋だった、人嫌いで扇でいつも顔を隠していた」皇后や「西の悪い魔女」が見ていた世界が暴かれていき、観客が彼女たちの中に共感できる部分を見つけるようなストーリー。この手の物語は非常に愛されますし、私も大好きです。しかし、これは中世が舞台となると成立しないのではないかと思います。

民衆とは誰で、何を知っているか

 イザボーの脚本の中でいちばん使われ方が気になったワードが「民衆」です。イザボーが、「民衆」に淫乱で最低な王妃と呼ばれたかのように描かれます。

 ミュージカルを好きな人が「民衆」と言われてまずイメージするのはレミゼラブルかと思いますが、「19世紀の民衆」と、「中世の王族でも貴族でもない一般的な人々」の感覚はかなり違います。

 国王や王妃、政治家のイメージが人々の間で共有されて愛されたり憎まれたりする、というのはものすごく近代的な感覚です。中世の、貴族ではない日々畑を耕して暮らす人々のなかには「王」の顔も名前も知らない人もたくさんいたのではないかと思います。自分が住んでいる土地の領主が関の山だったのではないでしょうか。雑誌や新聞のようなメディア、そもそも印刷技術が発達していません。

 フランス革命やレミゼラブルの六月暴動ですら、民衆とはいえ一部のリテラシーの高い民衆による革命です。いわゆるブルジョワ革命に、1789に登場するロナンのような階層が実際にフランス革命初期である1789年に革命の場にいたかと言われると怪しいところがあるかと思います。あくまでただ身分がないだけで資産や教養はあるブルジョワによる革命なのです(1789ではロナンとデムーランらの階層の違いが描かれています)。この人たちが、本や新聞を読んで自由だとか平等だとか共通の認識を持ち、今自分たちが置かれている状況はおかしい!と団結して起こったのがブルジョワ革命です。「日々の生活に困る貧乏な農民」的なイメージの人々が起こす革命(プロレタリア革命)は、アナスタシアに描かれるようなロシア革命の時代までさらに進まないと起こりません。

 さらにさらに古い中世では、カトリック教会が絶大な権力をもち、神の代弁者たる教会には王も諸侯も逆らえません。なぜそんなことが起こったかというと、長いこと聖書はラテン語で書かれていたからです。印刷や出版が発達していなかったことやそもそもカトリック教会が翻訳させなかったりして、自分が読める言語で直接聖書を読める人が大変少なかったからです。宗教改革が起こり、教会の権威が批判されてただしく聖書に立ち返ろうという動きが盛り上がるのは、ルターによる聖書のドイツ語翻訳がきっかけのひとつです。

 王と関わりのある諸侯たちの間で王や王妃についてあることないこと囁かれるような状況はあったかもしれませんが、人々から見える王妃の行動の結果や噂による勝手なイメージが共有されて不名誉なレッテルを貼られるようなムーブメントは起こりにくい状況なのです。

 なにかを知ること、解釈することは、中世においてはものすごく高度なことだったのです。

 なので、アンサンブルキャストにやたらと大声で「フランスを滅ぼした悪女」「淫乱」「最悪の王妃」と叫ばせ、そういう"一般論"があったかのように演出していることにはかなり苦手意識を持ってしまいました。

中世のフランスと近代主権国家フランス

 劇中で繰り返される「フランスを滅ぼした悪女」と「フランスを救った乙女」という表現も気になりました。

 英仏百年戦争といいますが、ここでいうイギリスとフランスは全く今のような国家ではありません。近代的な国というのは非常に新しい概念です。イザボーの時代は国の中に諸侯が治める大小様々な領地があります。国王も、その諸侯のちょっと規模の大きいバージョンというくらいのもので、諸侯たちをちゃんと治めていたわけではありません。絶対王政はもっと後の時代の話なのです。簡単に言ってしまうと、土地を持つ諸侯や国王たちが持ち物の奪い合いをしているのが中世の戦争です。英仏百年戦争は、イギリスの王がフランス内に土地を持っていたため、イギリスの王でありながらフランスでは王の下の諸侯という立場にあるというねじれが原因のひとつになっています。

……という簡単な説明はパンフレットにも記載されていたのですが。

 まるで「フランス人」としての意識が人々の間に共有され、みなが「フランス」というふるさとをなくしてしまう危機感に襲われたかのように「フランスを滅ぼした悪女」というワードが使われていたのです。

 あろうことか、中世のフランスと近代主権国家になったあとのフランスを混同して、主要人物に赤と白と青の衣装を着せていました。フランスの国旗(ついでに国歌も)は、フランス革命軍が由来です。イザボーの時代の後に訪れる絶対王政の時代をさらにひっくり返した共和国としてのフランスが今のフランスのアイデンティティの象徴の国旗や国歌に使われているわけですから、そんなものの影も形もない時代になんとなくトリコロールを使ったように見えてしまって「うそでしょ…」と思わざるを得ませんでした。

 ジャンヌダルクがフランスの英雄のような評価をされるようになったのはものすごく最近です。教皇庁がジャンヌを聖女としたのは1920年です。後世の人間が後世の尺度で全てをごっちゃにしてしまっているように見えてしまい、いたたまれませんでした。

日本発ミュージカルを輸出したいなら歴史物にはストイックになるべき

 創作物の中では、歴史上の時代が舞台だとしても、フィクションがあっても問題ありません。ヴェローナの民が赤と青のレザーのジャケットを着ていても、死という概念が人間の形をしていても、実在のフランス革命の中心人物に農民の友達がいても全然いいと思います。なんなら、当時はまだだれも気づいていなかったかもしれないけれど、「女でも子どもを産む以外のことができる」「私も幸せになってやる」という個人としての生き方をもとめる女性がいたということにしてもいいと思います。しかし、その時代の人々の感覚をないがしろにしてまで描くのはあまりいいことではないと思います。当時の感覚を踏まえた上でそこに生きた人が感じた不条理さを言語化し、現代の観客の中にも同じようなものが見つかったときこそ、素晴らしい物語としての評価を得られるのだと思います。

 しかし、歴史上の人物が国民意識の高揚に利用されることがよくあります。国民意識や国境への意識は非常にデリケートな問題です。それに、今は民族や国境に関する現代の感覚と当時の感覚をごっちゃにしてしまったことが原因でもあるような大きな戦闘がウクライナとガザで起こっています。

 そんな時代に、あえて中世を生きた人物の名前を使ってこういう脚本にした理由はどこにあったのか見えてきませんでした。国家という概念を雑に扱ってしまいはしたもののするどく女性への抑圧が描かれていたかというとそういうわけでもなかったです。むしろ、国家という概念に無頓着なのに戴冠式の煽りを客席にやらせてなにか王と民衆の構図的なものを意図的に作ろうとしていて、ちょっと無神経すぎないかと思ってしまいました。日本オリジナルミュージカルを謳う演目が、何が悪いのかよくわからないままかっこいいモチーフを並べ立てたような中二病的な危うさを持っていることを受け入れられませんでした。

 シャルル7世というキャラをうまく生かして欲しかったです。「1人の女や母親であるまえに1人の人間であるイザボー」の対極にあるのが、イザボーを母に持つシャルルなのですから、息子がみた母と人間イザボーの見た景色をもっと対比させたらそこそこ見たことのないものになったのでは、と思いました。

 Musicals Of Japan Originプロジェクトと冠した公演でしたが、もし本当に日本オリジナルのミュージカルをつくって海外に輸出しよう!みたいなところを目指しているのだとしたら本当に神経を使わないといけないはずのところに神経が行き届いていなかったのでは、と思います。

 余談ですが、わたしはヘタリアがきっかけでヨーロッパの歴史や国という概念に興味を持ちました。いまでは、ヘタリアの持つ危なさや問題がよくわかり、指摘できます。ですが、ヘタリアのキャラクターやヘタリアを一緒に楽しんだ友達との思い出はとても大切なものです。歴史物の創作物は、問題点があったとしてもそういうスタートラインになりうる素晴らしい物です。イザボーの脚本家さんが関わっている刀剣乱舞もそういう面があります。

 個人のサイトで公開されていたアンダーグラウンドな作品としてスタートしたヘタリアや、限定的な客層に楽しまれるゲーム、2.5次元舞台がメインの刀剣乱舞では、そういった問題が指摘されながらメディア展開が広がり、ファンダムが形成されて行きました。それ自体は悪いことではないと思います。しかし、日本オリジナルミュージカルを作ることをめざすプロジェクトが「問題を指摘されながらファンを増やして、ファンを歴史のお勉強や博物館に送り込んできました」みたいなゆったりのスピード感で歴史に向き合っていて果たして大丈夫なのかどうか、考え直した上でMOJOプロジェクトには今後の展開を目指していってほしいです。

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