生きるということ 第1話 愛犬すん
あらすじ
ここは九州のど田舎の集落。新垣雪太(せった)は隣人に無職だと思われ暮していた。しかし彼の職業は肖像画を描く肖像画家。ある時もう亡くなった少女の肖像画を描いてほしいという依頼が舞い込んでくる。プリントアウトされた写真のほとんどが横顔ばかり。それを見て正面の顔を復元してほしいというご両親のたっての頼みに雪太は奮起する。肖像画家としての真価が問われるこの仕事、雪太の果敢なる挑戦が始まる。
土手沿いの道を、子犬の時に引き取り育てている愛犬「すん」にリードで引っ張られながら散歩をしている親子の姿があった。今日は父が散歩の当番の日。母と交代で散歩に行っている。
それについて行っているのは小学4年生の長男 大河。国際人としてもファーストネームが「タイガー」と覚え易いように配慮してのネーミングである。父、新垣雪太が大河ドラマが好きだという理由もある。
すんはリードを引っ張りながら時おり止まっては草むらに鼻を突っ込んですんすんと匂いを嗅ぐ。だから「すん」である。
もぐらの穴を調べているのだ。たまに調べたところをわしわしと前足で掘っていく。それでもぐらを捕まえたところを見たことはないが、とにかく一生懸命ほじくり返していく。
二人兄妹である。五つはなれた妹の長女の名前は恵利。これも国際人になって世界に羽ばたいてくれという親心である。
すんがこの家に連れて来られたのはどしゃ降りの日のことであった。友人の隣の庭につながれっぱなしで散歩にすら全く連れていかれないメス犬が、なんといつの間にか3びきの子犬を産んでいたという。
激怒したのはその飼い主である。毎日のように犬用の鎖でせっかんし始めたのだ。鎖でたたかれるたびに「キャウン!」と押し殺すような悲鳴を上げる母犬。しかし震えながらも子犬のために堪えている。友人にはそうとしか見えなかった。
友人は見るに見かねて母子ともども30万円でゆずってくれと交渉すると、嬉々として4匹を差し出したという。その代わり友人は、
「二度と犬を飼わないでいただきたい!」
と、飼い主にぴしゃりと言ってやったらしい。
その子犬の一匹がここに持ち込まれたというわけだ。
まだ産まれてから3ヶ月ほど。とにかくまず風呂場で体を洗いバスタオルで拭きあげたあとリビングに連れていくと、人間を恐れてソファーの下などに逃げまわるではないか。
こんな子犬なのに、母犬がせっかんされているのを見て(人間は恐いもの)と刷り込まれたようなのだ。
寝る時間になった。雪太はすんを多少むりやりに自分の脇腹に置いて寝た。すんも疲れていたのか、抵抗もせずにすぐに寝付いた。
妻の静江も抱いて寝たがったが、最初は群れでいうところのボス、この場合は雪太が可愛がってやるほうが、その群れに馴染み易いと犬の飼い方の本に書いてあったのでその通りに実践しているのだ。
「見せて、見せて」
静江がねだるので雪太が布団を上げると、毛布にくるまりうつ伏せになり、完全に力を抜いて寝入っている無防備な天使の姿が。
「可愛いー!」
静江は今にも取り上げたがったが、そこはがまんである。
「家族に慣れたら、おもいっきり抱いて寝ていいから」
雪太がすんを優しくなでる。するとやおら静江が雪太の布団に入り、狭い布団に体をねじ込んできたではないか。雪太はもう笑うしかない。妻の好きにさせてやる。
そしてすんをなで始める。すぐにうつらうつらし始める。あらためて自分の布団の枕を取ると目をつぶり、完全に寝入ってしまった。
それを笑顔で見ていた雪太もとろとろとし、また夢の中へ……
それから1ヶ月たち、すんはもうすっかりなれてくれた。
次の日の散歩は、静江の番だ。家のことは一切夫の雪太に任せ、午後4時から始まる近所のスーパーのタイムサービスの4時から市(ポイントが5倍になるサービス)に向けて己を奮い立たせると、すんを連れ、いざ出陣である。
近所の奥様方がこそこそ話している。
(やっぱり旦那さん無職なんですって)
(奥さんのパートだけでやっていけるのかしら)
(足りないから旦那さん畑仕事してるんじゃない?)
「おーほほほ!」
と、彼我を比べて面白がっている。
そんな噂話はほっといて、スーパーに着いた静江は、駐車場の裏のフェンスにすんのリードを縛り、4時から市の始まりにかまえる。
野菜はほとんどが自家製の物でこと足りる。しかしニンニクなどの香辛料がない。こういうものは買う。あとは肉と練り物である。
今日のオススメは、豚の切り落とし500g、498円である。このデカ盛り3パックがお目当てなのだ。
考えてみると昔は牛肉がこのくらいの値段の時代もあった。明らかにインフレが進んでいる。玉子など、いまや250円の世の中だ。
庶民の暮らしは脅かされるばかり。静江は漠然とした不安にかられている。
買い物も終わり、スーパーの外に出るとおどろいた。すんと見られる子犬が、駐車場のまん中で倒れていたからだ。
静江は買い物袋を投げ出し、走ってすんのところにかけつける。リードが外れ虫の息になっている。車に跳ねられたにちがいない。これからどうするか。歩きで散歩がてらにきたので車もない。静江は意を決しタクシーを呼んだ。そしてすぐに動物病院へ。
手術がおわり、雪太も合流している。手術は成功。なんとか一命はとりとめた。
主治医は言う。
「外傷性のショックもなく、命だけは助かりました。ただ……」
「ただ?」
「恐らく脊椎を損傷してまして、これから一生下半身が動かなくなると思われます」
「下半身不随……」
現場には重い空気が流れる。ついに堪えきれずに静江がわっと泣き出した。
「あのとき、もっとリードをきつく縛っていたら、こんなことにはならなかったのに……」
「もう自分を責めたってしょうがない。前を向こう、静江ちゃん」
家路につく。二人とも一言もしゃべらない。
夜、今日の出来事を、学校にいっていた子供らに話す時がきた。静江は難しい顔をして雪太の横に正座をして座っている。
「二人ともこっちに来て座りなさい」
大河と恵利はふた親のただならぬ雰囲気を感じて自分たちも正座をして座る。
「今日、すんが事故にあった」
「うん」
「命はとりとめた。が、一生足が使えなくなったそうだ」
「えー! じゃあもう歩けないってこと?」
大河が眉をへの字にしてたずねる。
「えー」
恵利が大河のまねをする。
「そうだな、そういうことになる。これからのしもの世話とか普通の犬の倍はきつくなる。それでもいいか」
「うーん」
「うーん」
「お前たちにはまだ分からないだろうが『保健所』ってところに連れて行き処分を……」
「やめてあなた!」
静江がまたさめざめと泣きはじめ雪太に寄りかかる。
「うう、すんの面倒は私が全部するから、もう…やめて……」
家族会議はそこで終わりとなった。
二週間後、すんが退院して帰ってきた。子供らにもみくちゃにされるすん。両足はだらんとしたまま。もちろん尻尾も。
すんが鼻をすんすんとならす。大河がその癖を見て
「あ、やっぱりすんだ」
と笑った。
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