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生きるということ 第15話 夕暮れ

 雪太は母との面会に出かける。
「じゃあ、家のことはよろしくな」
「いってらっしゃい」
 車に乗り込み途中スーパーでリンゴを買い、母が住んでるホームへ向かう。
(リンゴは固いかな)
 ホームの事務所で面会の申請をし、部屋に入ると母は寝たままテレビを見ていた。
「おかん、来たで」
 椅子に座ると母が言う。
「誰ねあんた。誠か」
 叔父の名前を言う母にショックを受けた雪太。
(もうおれが誰かも分からんようになってるんやな)
 想像以上に痴ほうが進んでいる。
「おかん、おれだよ、雪太!」
「ああ、雪太か」
「今日は顔を見に来たんだよ。リンゴ食うか」
 うなずく母。雪太は果物ナイフを取り出し、皮をむき始める。
 思い出すのは長いパチプロ生活に別れをつげ、実家に帰った時のことだった。連絡をいれていたので、母と姉二人に出迎えられた。
 母はなれない化粧をしわだらけになった顔に塗りたくり、恥ずかしそうに出てきた。雪太はその時心の底からすまないと思った。
 すでに65もとうに過ぎ、足元もおぼつかない。それでも母は笑顔で雪太の里帰りを喜んでくれた。
 あれからさらに10年、しばらく見ないあいだにこんなに衰えていただなんて。
 できることなら真っ当な人生を歩み、年に一回ぐらいは実家へ帰り母を安心させたかった。もう取り戻すことができない空白の時間。なにも分かっていなかった若いころの自分。それらすべてがはがゆい。
 皮をむいたリンゴを八等分に切り、一つをわたす。母はそれを受け取りシャリシャリと食べる。まだ歯はいいようだ。
「なあ、おかん」
 母は返事もせず雪太の方をむく。
「おれが帰ってこなかった間はおれのことどう思っていたん?」
 母は何か考えるふうであったが、その質問に答えることもなく「リンゴ」とだけ言った。
 幼い日の思い出、家族でお出かけの時は、いつも車の助手席で母に抱かれていた。甘やかされて育ったと思う。いまは自分がそれを返す番だ。
 すると突然配線がつながったように、母が雪太に聞く。
「パチンコは勝ってるんか」
「おかん、おれはな、いま画家になってるんよ。忘れたかな」
「……」
 また黙り込み右手をこちらに出す。
 雪太は黙ってその手を握り返す。
「絵描きになったんか。あんたの夢やったからなあ。小学生の時あんたの絵、なんか賞を取ってアメリカまでいったからなあ、懐かしいな」
 雪太すら忘れていた記憶。鮮やかによみがえる。
「そうや、その絵描きにいまなってるんよ」
 また反応がなくなった。記憶が現在と過去を行き来し混在している。雪太は母のひたいをなでる。
「リンゴ」
 またリンゴを母に与えると汁が口からこぼれる。それを雪太はティッシュでふく。
 最近は買い物もままならず、叔母に頼んでいたようだと姉から聞いた。頼むのはいつも米とハムだけ。ときおり叔母が野菜を細かく切り刻んだスープを作り置きしてくれていたという。そんな状態だったとは少しも思わずにぬくぬくと暮らしていた自分の罪深さを改めて思い知る。
「おかん、ここのご飯はうまいか」
 母は首を縦にふる。
 そこではっと雪太は気づいた。右目が少し白くなっている。
(白内障だ!)
「おかん……目が見えんのか……」
 母はそれには答えず、「リンゴ」と言った。
 ぼろぼろと雪太は涙をこぼす。
 ここまで老いさらばえた母をほっぽって、自分だけ幸せをかみしめていただなんて。
「うおー!」
 雪太はたまらず大声をあげて泣いた。
「どうかしましたか」
 職員が駆けつけた。
「いえ、何でもありません……母が目を悪くしたのを知ってつい……」
「最初の診断で右目のことはお姉さんに伝えていたのですが」
「お騒がせしました。もう大丈夫です」
 母が口を開く。
「そこにいるのは、雪太の嫁か」
「そうよ、結婚したんよ。静江っていうんや」
 頭をさげ、職員は出ていった。
 窓から夕陽の光が差し込む。雪太はぼんやりその光景を見つめながら、まだ父が生きていた頃を思い出す。
 夕食時、父にだけ酒のつまみにナマコの酢の物が出ていた。たまに雪太の口に放り込んでくれた。美味いのか美味くないのかよく分からない食べ物だった。それが母の愛の証と気づいたのは自分も結婚してからだった。
「リンゴ」
 母が思い出したように言う。
「もう一切れあるで。はいあーん」
 シャクシャク食べる母のひたいをなでる。もう何年もしないうちに母は自分のことなどすっかり忘れてしまうのだろう。
 それまでは、いやそれからもできる限りのことをしてやろう。たしか実家に雪太が描いた歯車のデザイン画があったはずだ。今度来る時はそれを持ってきてやろう。
「美空つばめが死んだな」
「ああ、亡くなったな」
 数十年前のことである。
 こうして、少しずつ、少しずつ、人は人生の終焉を迎えるのだ。
 母の一生は幸せだったのだろうか。
 なにもかも忘れて死ねるのなら、それは幸せなんじゃないか。

 自分の心の落としどころをそんな風に定め、雪太は夕日をじっと見つめていた。

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