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「漂揺の狩人」第9話

「そんなに酷い会社なのかい」
 日曜日である。表通りは街を闊歩するカップルが、幸せそうに歩いている。夏海は再会した時からますますどんよりしている。
「もう会社やめたい!」
 泣き顔で聡に訴えかける。聡もここ何ヶ月真剣に考えていた。聡は意を決して夏海に言う。
「これから一緒に住まないか」
 夏海はこの言葉を待っていたのだ。
「いいの?」
「ああ、二人で住めばそっちもアパート代がいらないだろう。これからまた一からやり直そうよ。そんな仕事辞めてしまえ!仕事がしたいんなら、もっと楽な仕事なんかいくらでもあるよ。仕事がしたくないんならおれが養ってやるし」
「本当に?約束よ」
 指切りをされた。
「とりあえずしばらく休みたい。何もかも忘れて自由になりたい」
「まずは辞表の提出だ。けじめはきっちりつけないとな」
「分かった」
「それに引っ越しだ。おれのお師匠さんがワゴン車を持っている。それを1日借りよう。荷物はそんなにないんだろう」
「衣装ばっかりよ」

 2日後、聡はいつもの店に夏海をつれて入っていった。カズは珍しく現金投資をしている。
「きのうスマホで言ってた夏海といいます。車を貸してくれるんですよね」
 カズがふりむく。
「可愛い彼女じゃないか」
「よろしくお願いいたします」
 夏海が丁寧に挨拶をする。
 カズは車の鍵を聡に渡す。
「ありがとうございます」
「まあ、郊外店に行くとき以外使わないからな」
 カズが笑って二人を見送った。
 問題の駐車場はグーグルマップですぐに見つかった。茶色のワゴン車に乗り込みエンジンをかけ、スタートする。まずは夏海の部屋に行き、荷物を運び出す。衣装ケースが6つと段ボール箱が4つ。本や雑貨などは捨ててきたと言う。簡素なものだ。2往復して引っ越しは終わった。
 車の鍵をカズに返しにいく。今日は調子が悪いのか、いまだに現金投資である。
「朝から1300オーバーだよ」
 カズが苦笑をしている。
「ほんと助かりましたよ。ありがとうございました」
「いいんだよ。いる時はいつでも言いな」

 聡と夏海は再度挨拶をし、聡のアパートへ戻る。六畳一間で4万8000円の狭い部屋だ。寝るときは二人とも床に布団を敷く派だ。押し入れに布団を突っ込む。
「これからよろしく頼むよ」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 夏海がようやく笑顔を見せた。
「今日は料理とかいいから飯食いに行こう」
「こんなに早くから?まずは荷物を片付けたいわ」
「分かった。手伝うよ」
 衣装ケースを押し入れにしまってやる。台所用品もシンプルなものだ。皿やコップやどんぶりなどしか持ってきてはいない。
「これで料理は作れるのかい」
「フライパンやお鍋なんかは捨ててきたわ」
「じゃあ、おれのを使うといい。少し古いけどな」
 夏海は聡の台所用品を品定めしている。
「大きめなお鍋がほしいわね。あとお玉とかこまごましたもの」
「それじゃあいまから買いに行こうか」
「うん!」
 二人は連れだって出かけていく。これからの新生活に二人ともうきうきしている。聡が冗談を言うと夏海が笑う。昔の恋人同士だった日々にようやく戻ったのだ。
 デパートの金物のコーナーに行くと、お鍋がずらりと並んでいる。夏海が探しているのはカレーやシチューを作る鍋だ。
「これがいいわね」
 ようやく決まったようだ。3800円である。フリーター時代ならとてもじゃないが手が出ない金額だ。しかしいまは安く感じる。金銭感覚が違っていることに自分でも驚く。
 あとはお玉とかレンゲ、箸やスプーンなどのこまごましたもの。夏海が財布を取り出すと、聡が右手で押さえる。
「いいよ、おれが払うから」
 と言い、財布から金を取り出した。
 帰り道にあるレストランで二人は久しぶりに一緒に食事をとる。
「これでやっと新生活が始まるな」
「うん。しばらく休みたい」
「十分に休むといいよ。もう君を縛るものは何もないんだから」
「ありがとう」
 夏海が少し涙ぐむ。よほどつらい仕事だったんだろう。

 女一人を養っていかなければならない。重圧がのしかかる。

 聡は決意を新たにした。

第10話
「漂揺の狩人」第10話|しんくん (note.com)

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