どんぐりころころどこへゆく
どんぐりのピアスをつくったのは30代半ばだったと思う。つけたいからつくった。
「いい年して、どんぐり」
できあがって、いざ、耳にというとき、こころの声は言った。
でもつけた。
毎年どんぐりの季節が来る。毎年、年を取るから、毎年少し気が引ける。でも気に入ってるからつける。
わたしはわたし
夏に、この動画を見た。
うれしかったー。声が、あたたかくて。
幼児期、小学校3年くらいまでだったか、「女の子云々」って、よく女性がわたしに言ったんだ。「女の子なのに、体格いいねえ!」は毎度。わたしは骨が太い、ハンガーみたいな肩、指も太い。年取って痩せすぎって言われようと、華奢にはならない、骨格は変わらない。
凄く印象的だったのは、よく知らないおばさんが、「将来何になりたいの」かって質問してきたときのこと。子どもと見ればこれだ。大人だけじゃない、小学1年生のとき同じクラスの子が「将来何になりたいの?」って。うんざりした。そのとき頭に浮かんだことはあった。掘る人。「発掘」現場のニュースを見て、掘る人になりたい!って思った。でも、それを人に言いたいとは思わなかったし、かといってほかには幼稚園の先生もスチュワーデスさんもお嫁さんもお花やさんも看護婦さんも、何も何も!思いつかなかった。
そのうちだんだん「わたしはだめだ」が確信になっていって、自分に「将来」とかいう結構なものはない、としか思えなくなっていった。だから件の質問にわたしが答えたことはない。
答えられなかったわたしに、そのよく知らないおばさんは言った。
「どうせ女の子なんだから、結婚すればいいからね」
そのときの笑い顔は決して感じのいいものではなかった。いや、そんな婉曲表現はよそう。下卑ていた。
彼女はよく知らない子どもを侮辱して楽しそうだったが、彼女が本当に侮辱したのは自分自身だ。
子どもは怒り、呆れ、おばさんを見た。
女とか男とか関係ない!
わたしは、 わたしだ!
子どものころ、女性たちから投げかけられた「女の子云々」に、何度こう思ったかわからない、わからない!
子どものころを思い出すと、子どもの自分のまともさに驚く。子どものころの自分は偉かったと感心する。
年を取るほどバカになって、無能、役立たず、ろくでなしを自分に証明してしまった( ;∀;)
なんで「女の子だから」とか「女の子なのに」とか言うんだろう?
わたしはわたしなのに──わたしはわたしだ──
この前『女ことばってなんなのかしら? 「性別の美学」の日本語』を読んで、「わたしはわたし」と知っていたかつての自分をあらためて思い返した。
本屋さんで「はじめに」を読んで、笑った。絶対読むしかない♪
著者の平野卿子さんはドイツの小説を翻訳していたとき、目覚ましい体験をしたのだった。
「なんなんだ、これは! こんなこと、生まれてから一度もいったことない。なんていい気持ちなんだろう。胸がスカッとする。」
そして「カイ、カン」と、つぶやいていたと。
女と男って、自分のこと考えたって、パキッと線なんか引けないな。ヨーロッパ人がアフリカ大陸に暴力で線を引いてしまったみたいに、パキッと線引きできるものなんて、この世にあるんだろうか? ないよそんなの、グラデーションなんだよ、っていろんなとき思う。
やっぱそうだよね、っていうところが『女ことばって』に書いてあった。
わたしは学習しなかったらしい(^^)声低い。でも、無力感は学習しつまった(T_T)
「生物学的に決まっている以上に」って、笑っちゃったけど、恐い。
ソプラニスタ岡本知高さんは囚われない自由な子だったのかな?
いままでいい気分でいられたマッチョな人たちにとっては、この時代、この流れは、地獄か狂気の世界か?
当たり前、常識、ふつうでしょ、ってことに、居心地の悪さを覚えたり、苦痛を感じても黙っているしかなかった人たちがどれだけいたんだろう。ことばを発することができないままこの世を去った人たちがどれだけいたんだろう。
話せる時代になってきたんだ。
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