見出し画像

これはこれ、それはそれ

身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべきであるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが「嫌い」である。
 身体には固有の尊厳があると私は考えている。そして、身体の発信する微弱なメッセージを聴き取ることは私たちの生存戦略上死活的に重要であるとも信じている。
売春は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。そのような仕事を長く続けることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。
「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的でない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業としようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、それがこれまで市井の賢者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」に与するのである。
http://blog.tatsuru.com/2022/07/01_0939.html

セックスワーク-「セックスというお仕事」と自己決定権
2022-07-01 vendredi


今朝、「内田樹の研究室」で「セックスワーク-『セックスというお仕事』と自己決定権」を読んだ。十分わかって人に説明できる自信は全然ない。だけども「セックスワーカー」ではない学者の人たちが言ってることが釈然としなくて、なんか変だ、なんかやだな、と思っていた。そんなようなものを見聞きする度に考えようとしたけど、わからんかった。無学なわたしには考える手立てがないなーと思っていた。
そんなわけで、これを読んで腑に落ちた。内田樹先生ありがとう!
⇧最後の部分はしっかり腑に落ちた。

終わりの数行を読んだとき即座に浮かんだのが永六輔さんのことば。
神戸・淡路大震災のとき、地元の山口組が機動力を活かして救済活動にあたったそうだ。当時、暴力団のくせにと、人道的行動が批判の的になったらしい。永さんはこの例を出して、「これはこれ、それはそれ」と話していた。
「これはこれ、それはそれ」って考えられないのはまずい!とそのとき胸に刻まれた。

そうだ、買う人にも、「やめとけ」とわたしは思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?