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伊藤詩織さんの不起訴処分を巡って

あまり纏まったことは言えそうにないが、私ごときに何か書いて欲しいとリクエストを下さる方がおられたので、とりあえず今の心境をつれづれなるままに語ってみる。

2019年4月、山口さんは警視庁に告訴状を届け、同年5月に受理されたという。10月、伊藤さんが書類送検された事実を山口さんはFacebook上で明らかにしており、伊藤さんもその事実を公表していた。東京地検は12月25日、伊藤さんを不起訴処分とした。山口氏が検察審査会に申し出るのかは今のところ未定だ。

伊藤詩織さん「不起訴」の第一報に際しては、ジャーナリストの松田隆氏が当意即妙に記事を配信された。

松田さんのご趣旨は、今回の決定を受けて取材に対応した伊藤さんが「性被害を受けた当事者」などと発言したことを指摘し、先の(山口氏の)不起訴処分を軽視するものであり、タイトルどおり「山口氏の不起訴を胸に刻め」である。

伊藤氏は不起訴になった事実を尊重してほしいとメディアや社会に求めるのであれば、それは山口氏に対しても求めて然るべきである。それを自分だけ尊重してほしいと言うのであれば、その片務的な扱いを求める理由を説明すべき。実際、山口氏は不起訴処分、不起訴相当の決定を受けた後もなおも犯罪者扱いするメディアに苦しめられている。

松田さんの言う通りだ。刑事不起訴の重みを軽々と超えていったのは、元はといえば伊藤さんと週刊新潮その他メディアだったのである。山口さんは続く検察審査会においてさえ不起訴相当が出ていたにも拘わらず、薬物レイプ犯として吹聴され続けたのであり、その切欠をつくったのが週刊新潮の記事と世界各国語に翻訳されたBlackBoxの書籍である。これが先導者と追随者による「不起訴」の軽視でなくて何だっただろう。

不起訴の内実は嫌疑不十分だから純粋無罪とは違うなどと詭弁を弄して山口さんを叩き続ける者は後を絶たなかった。そのような者たちが今回の「不起訴」を尊重せよと言うならば手前勝手なダブルスタンダードに他ならず、贔屓の者だけ一方的に都合よく(松田さんの語句を借りれば「片務的」に)適用させるなら法治でなく情治である。

刑事不起訴を乗り越えて出版された書籍は、「引き摺られ、抱えられて」という表現やパソコンでの盗撮疑惑という、当事者の人格を強く一定方向に誘導する効果を持っていたし、法廷で証明できなかった薬物の使用や強姦致傷の内容を含むもので、今の時点では事実無根といっていい。性行為の「同意の有無」を置くとしても、それらの記載内容については「名誉毀損」と「虚偽告訴」が問えるのではないか・・・そう思っていた。

ところが、出された結果は「不起訴」だった。一報を受けた私の所感は、「これで増えてくるぞ!」だった。もしも刑事でお咎めなしならば、今後は「言った者勝ち」「広めた者勝ち」が確実に増えるだろう。現に二番煎じのごとき草津元町議女性の性被害疑惑も進行中なのだ。

パブリックに向けて何かを公言するとする。すると発表した当事者には説明責任が生じる。他者の名誉にかかわる場合は尚更だ。一般社会に生じた疑念に真摯に向き合う姿勢が求められるし、根拠を示す必要も出てくる。言いっぱなしで「私は正しい」「相手が嘘を言っている」と言い続けるだけなら、そのような行為に対しては鉄槌が下されてほしい・・・無責任な言いがかりはダメ・・・嘘はもってのほか・・・そういう倫理的な規範が示されるべきという私の淡い期待は潰えてしまった。

不起訴の決定をどう捉えて良いものか。山口さん(性加害)を刑事不起訴とし、伊藤さん(名誉棄損・虚偽告訴)もまた刑事不起訴。つまりどちらも民事レベルでやってくれよという意味か?推測してはみるものの決定の根拠が不明である以上、こちらも憶測の堂々巡りだ。

民事裁判とちがって検察は判断の根拠を示さない。山口さんの不起訴に際して、伊藤弁護団は資料を請求しても、のり弁で返ってくると嘆いておられた。(民事の訴訟記録を閲覧制限でのり弁を作る方が何を言うかというのは差し引いて)、彼らの嘆き自体は尤もだと感じる。これだけ事件が一般社会の関心事となっている以上、当事者のみならず私のような第三者にとっても、せめて根拠が知りたいと願うのは不当な要求ではないだろう。

いま、同じタイミングで別件の「不起訴」が話題になっているが、「不起訴だ!以上!」で済ますなら、あまりに検察は傲慢で強権的ではないだろうか。検察といえばかつてホリエモンの国策捜査や、厚労省・村木さんのフロッピー改ざんの件、日産ゴーン元会長の件では人質司法とともに検察の99.9%有罪率が(内政干渉の懸念を孕みつつも)世界の批判を浴びたのは記憶に新しい。瀬木比呂志氏も著書で批判を展開している。

瀬木氏は以下のように述べつつ、検察を監査するシステムの不在を指摘している。

 検察の権限が大きすぎることも日本の刑事司法に特徴的な問題である。日本における広義の政治権力で最も強大なものが何かについては種々議論があるが、検察庁、総体としての検察がその一つであることは、おそらく間違いがない。これは、海外の学者がしばしば指摘するのに、日本では必ずしも十分に認識されていない事柄である。
 検察庁は、検事総長をトップとする行政機関であり、裁判所のように支配、統制のシステムがみえにくい組織ではない。また、OBをも含めた相互の一体感がきわめて強く、これは裁判所とやや異なる点である。(略)
「検事総長などまだ実質的な決定権をもっていない小僧っ子」といわれるほどOBたちの力が強いといわれる。
 捜査、起訴に関する検察の権限が大きすぎ、それをチェック、コントロールする適切な仕組み、たとえば英米法系諸国における予備審問大陪審のように起訴のためにほかの機関による承認を必要とする仕組みがないことも、冤罪や国策捜査の原因の一つである。『ニッポンの裁判』(P70)

検察はよほど自信がある案件でしか起訴に踏み切らない。一方で有罪率99.9%とは、言い換えれば起訴した以上は全力で「有罪」に持ってゆくという態度に他ならず、もしも「無罪」となったら検察の面子にかかわる大失態と捉える体質を示している。つまり組織の論理で「有罪」のベクトルが働くということだ。それよりも、有罪率は低くても実体審理を充実させるとともに、検察を監視する機能が必要なのではないか。

目先の問題に戻ると、山口さんの件では来年に結審が見込まれる民事控訴審の結果が、これまで以上に重い意味を持つこととなったといえよう。私としては、伊藤さんがジャーナリストとして世界的に有名になろうが富を得ようが(はたまた惨めに凋落しようが)もともと二の次だ。

自分可愛さで平気で嘘をついたり、私欲で他人を貶める人は嫌だ。私”も”事実を曲げる人が嫌いだ。でも残念ながらそういう人は何時の世も存在するものだから、出現した時にファクトベースで正しく判断し、是正できる環境やシステムのほうがより大切だと思っている。ウィルスに対する免疫と抗体のように。私としてはモラルの欠落した人物を注視するよりも、日本の法治主義の劣化を怖れつつ、一日も早く山口敬之さんの名誉が回復することを願っている。