比較検討 (伊藤詩織さん)陳述書
ズンダドド、ズンダドド・・・杉田水脈裁判での陳述書に腰を抜かした後、伊藤山口一審の陳述書と比較してみよう!これもたぶんネットは初出。杉田裁判分より2年も前の2018年の陳述書、全18頁。
内容はほぼBBどおりで、これはこれで突っ込み所はあるけど、それよりもしっかりした構成に文体、筆致、使用された語彙・・・精度が全く違う。まるで別人です。ふつう、後になるほど進歩するものだが・・・。
前回紹介分はこちら(↓)。
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伊藤・山口民事一審 【甲第37号証】
陳述書
平成30(2018)年11月26日
私は、被告に対し、平成27年4月3日から4日にかけて、私が意識のない状態を利用して性交渉された不法行為に基づく慰謝料を請求していますが、本件につき、以下のとおり陳述いたします。
第1 事件当日までの経緯
1 私が、被告と初めて会ったのは、2013年12月11日、ニューヨークのアルバイト先のピアノバーでした。
当時、私は学生でジャーナリズムと写真を学んでいました。私はジャーナリストになる夢を抱き、両親の反対を押し切り留学していたことから、留学費用や生活費を自分で賄わなければならない状況でした。ベビーシッターなどいくつかアルバイトを掛け持ちしていたうちの一つがピアノバーでのアルバイトでした。
ここでの仕事は、お酒の給仕をしたり話し相手をする仕事でした。ピアノバーで働くアルバイトたちは皆、夢を抱いてそのための資金を貯めるためにアルバイトをしている人ばかりであり、私もそのひとりとして、このアルバイトを続けていました。
被告と会った時、私は、自分がジャーナリスト志望であることを伝えたところ、「見に来るといいよ」などとTBSのニューヨーク支局内の見学を勧められました。
翌日、被告からショートメールで「これからNY支局長と昼食を食べるので、そこに来てくれますか?」とTBSのニューヨーク支局長との昼食の場に誘われ、その後、ニューヨーク支局長に同局内を案内していただきました(甲9)。
2 2014年8月2日、フィレンツェでの留学を終えてニューヨークに戻る予定であった私は、被告に、TBSのニューヨーク支局でインターンをさせていただけないかを申し入れしました。被告からは「インターンの件、早速聞いてみます。」と返事がありました(乙1の2)が、当時TBSのニューヨーク支局ではインターンの募集はなく、被告から紹介された日本テレビのインターンに応募しました(乙1の3)。
その後、日本テレビのインターン採用の筆記試験、面接試験を受けてインターンに合格し、同年9月、私はインターンとして日本テレビのニューヨーク支局で働きだしました。
ニューヨークでは国連総会の最中でした。インターンとして働いている私に、ニューヨークに来ていた被告から、「今夜国連大使とかコシノジュンコさんと飲むけど来る?」と誘われたこともありました(甲1の1)。このように誘われることは、私としてはネットワーキングの一環であると考えていましたが、インターンとしての国連総会の仕事が多忙だったのと他に予定もあったので参加することができず、残念な思いでいました。また、被告は、このように気さくに人を紹介してくれるネットワーキングが得意な成功したジャーナリストであると認識していました。
3(1) 2015年2月、私はロイター通信の日本支社と2ケ月間のフルタイムインターン契約を結んで働き、その後はシンガポールにあるロイターの本社と継続して日当のもらえる契約で働くことが決まりました。しかしすぐに消費される情報やニュースだけでなく、社会問題に特化したドキュメンタリーなどを長期で取材したいと思うようになり、完全なフリーランスになると決め、両親に打ち明けたところ、生活苦に陥っていたことを知っている両親からの大反対もあり、2年間は会社勤めをすることを約束し、就職活動をすることになりました。
両親を安心させられ、かつ、外資系メディアか日本のメディアであってもアメリカで採用され英語でコミュニケーションがとれる環境であれば、私が求める仕事環境をも適えられるかもしれないと思うに至りました。
私は無給であるインターンであれば就労ビザはいらないが、有給であるプロデューサーであれば就労ビザか就労許可が必要であることは当然ながら承知していました。当時、アメリカの大学を卒業した後、日本テレビのニューヨーク支局で採用された人のことを思い出しました。(アメリカでは現地の大学を卒業するとOPTという一年間の就労許可書がもらえるので、留学生はまずこの許可書を使いその後、就労ビザをスポンサーしてくれる企業を見つける。)現地採用の枠を考えると、日本テレビの現地採用枠はその人が決まったためにしばらく埋まっているであろうことは予想できました。TBSのニューヨーク支局も募集はないと聞きましたが、被告が「TBSのワシントン支局であれば、いつでもインターンにおいでよ」と言っていたことを思い出しました。
(2) そこで、就職活動の一環として、2015年3月25日、被告に「現在絶賛就活中なのですが、もしも現在空いているポジションなどがあったら教えていただきたいです。」とメールを送りました。
その時、被告とやりとりしたメールがニューヨークで人を紹介するから来ないかと誘われていたメールで終わっていて、返信した履歴が残っていなかったため、もし返信していなかったら失礼なことをしてしまったと思い、そこで、社交辞令として、そのメールの際、「東京にお戻りの際はぜひお会いできたらうれしいです。」ともメールしました(甲1の1)。
(3)そうしたところ、被告から「インターンなら即採用だよ。プロデューサー(有給)でも、詩織ちゃんが本気なら真剣に検討します。ぜひ連絡下さい!」(甲1の1)という思わぬ返事がきました。私は、無給のインターンよりも有給であるプロデューサーの方が両親も安心すると思い、すぐに応募する旨の返事をしました(甲1の1)。
(4)すると、被告から、「こっちも本気で検討します。」「ビザはもってる?」「新規プロデューサーという事になると、採用やら待遇やら、TBSインターナショナル本社の決済をとらないとなりません。これにはかなりの時間がかかります。あるいは、まずはこっちに来てフリーランスとして契約して、しばらく仕事をしてもらいながら正式な採用に向かうという手もあります。このやり方なら私が決済できます。どういうやり方がいいか。ちょっと考えてみます。」というプロデューサーでの採用に前向きな返事がありました(甲1の1)。
(5)私が履歴書をメールで送ると、「最大の難関はビザだね。TBSで支援することも可能ですので、検討してみます。ところでヤボ用で一時帰国する事になったんだけど、来週は東京にいますか?」と被告から返事が届き(甲1の2)私が東京にいること、もしお時間あったらお会いしたい旨をメールすると、「調べたら、支局スタッフとして雇用するために会社で支援をした実績はあるようです。来週後半、空いてる夜ある?」(甲1の4)、「金曜日空けといてもらえますか?なんか奢ります。」(甲1の6)と返事がありました。
前述の通り、私は、有給であるプロデューサーに採用される場合は雇用の条件として就労ビザ等が必要であることを承知していましたが、他方で、就労ビザの取得のためには雇用契約が必要であることも認識していました。アメリカのビザの取得はとても複雑だけれど、今までにも現地で採用経験のある被告ならその問題を解決する方法を知っているのだとメールの文脈から受け取りました。そこで、ビザについて話し合うため、私は、被告と4月3日金曜日に会う約束をしました。
(6)このようなメールのやりとりから、私は、4月3日に被告と会った際に、TBSのワシントン支局でプロデューサーとして働くためには就労ビザが必要で、面接などの採用の判断の前にまず就労ビザ獲得が可能なのかについて話をするために会うのだと、考えていました。
また、これまで被告と二人きりで会ったことはなく、常に誰かと被告が一緒にいる場所に呼ばれていましたので、当日も二人きりで会うとは全く想定してなく、誰かがいる場所に呼ばれていると思っていました。4月1日の被告からのメールでも「金曜日、午後7時位からになると思います。」(甲1の8)とあったので、被告が私以外の誰かとスケジュール調整をしているのだと思っていました。4月3日当日の被告からのメールにも「恵比寿集合だと何時頃来られる?」(甲1の10)と「集合」という言葉があったので、私も「恵比寿に集合の時間が決まりましたら連絡ください!」(甲1の12)と「集合」という言葉を使って返信し、誰かがいる場所に呼ばれているということを疑いませんでした。
当時、私は、ロイターで働いていました。2月から働きだし、4月から有給になったばかりで忙しくしていました。被告とのメールでのやりとりでは思ってもみないような好感触でしたが、まずはビザの問題をクリアしなければならないと思っていたので、ビザの問題がクリアできる見通しが立ってから、ワシントンで働くことに自分の適性があるかについて真剣に考えようというくらいの気持ちでした。当時、他の数社にも応募していました。また既に、ロイターで働いた後はCNNでのインターンとして日本で働くことが決まっていました。そのようにまだ手探りの状態だったので、絶対にここで決めようというまでの意気込みまではありませんでした。ただ両親を安心させるために就職活動をするが、結果として正社員がダメでも、ロイター、そしてCNNでの勤務を経験すれば、その後は海外メディアと契約をして自分がやりたい取材をして稼げるようになるのではないかと漠然と考えていました。
私は、ジャーナリストとして社会部で働くことを希望していましたが、ワシントン支局で働くことになると、その土地柄から政治部の仕事になることが予想されました。両親からフリーランスではなく2年間は会社で働いてほしいと言われたため就職活動を始めましたが、実際に希望に合う仕事なのかわからなかったため、被告に会って話を進めるべきなのか親友の●●さん(以下、Kさんと言います。)にも相談したところ、「いいチャンスだから会って聞いてみるべき」と言われ、社会部の仕事を目指している自分でも政治部としてやっていけるのか、被告から仕事内容の話を聞くことで、その不安を解消できるのかもしれないと、その点も情報を得たいという気持ちも持ちながら、出掛けて行きました。
第2 事件当日の会食の経緯
1 2015年4月3日、私は、午後6時40分頃、九段下で奉納相撲の取材を終え、被告にメールをしました(甲1の12)。
九段下からタクシーで移動し、赤坂にあるロイター本社に立ち寄って機材を置きました。奉納相撲で砂ぼこりをかぶっていて、また、「恵比寿ですと8:00には確実に行けます!」(甲1の11)とメールした午後8時には間に合うという思いのもと、原宿にある自宅に戻って着替え、恵比寿に向かいました。午後8時頃に恵比寿駅に着きました。
被告は、恵比寿で会ったのは午後6時55分であったと主張していますが、私は6時40分頃に上記のとおり被告にメールをし、その後、九段下から赤坂、赤坂から原宿、原宿から恵比寿に移動していますので、被告の主張する時間に恵比寿に到着することは不可能です。
2 被告が恵比寿駅まで迎えに来てくれて、お店に向かいました。歩きながら、被告から、店で既に飲んでいるが、今日の目的はそのお店ではないこと、予約をしたのは次に行く鮨屋であること、この辺りは生まれ育った土地で、帰国すると顔を出さなければならない店がたくさんあること、これから行くお店は昔、父親に連れてきてもらった店であること、あくまでも鮨屋が目的なので、これから行く店ではあまり食べないようにということなどを聞きました。
「とよかつ」という串焼き屋に入ると、被告と二人きりであることを知りました。被告と私はカウンターに座り、カウンターの向かい側には昔から被告と馴染みの大将と女将さんがいて、被告は大将や女将さんと会話をしていました。私は、二人きりであることに驚いた上に、被告の知り合いに囲まれて、どのような立場で話をすればよいのか、内心少しドギマギしていました。
私は、目の前に大将がいることもあり、出された物は食べなければ失礼にあたるという気持ちで、目の前に出された串焼きを5本ほど食べました。また、もつ煮込みと叩きキュウリがあり、ビールをコップ2杯とワインを1、2杯飲みました。
その店で、被告から、ワシントンは政治部だけど、政治部に興味があるか、と聞かれ、私は、社会部に興味があり、政治部でやっていけるのかわからない、政治部はどういう仕事をするのかと、正直に被告に尋ねました。ここでは、このような話をしましたが、被告は、偶然隣の席に座った人や女将さんと忙しく話していて、ビザの話にはなりませんでした。
「とよかつ」を出る直前に、女将さんが、「山口さんのためにとっておいた」などと言いながら一升瓶の赤ワインを出してきました。被告は、その一升瓶を隣席のお客や女将さんらにふるまいましたが、一升瓶の半分以上は残っていて、その残りの赤ワインを隣席のお客さんであった美容師さんにあげて店を出ました。
3 「とよかつ」を出て、午後9時40分頃、鮨屋に向かいました。この日の気温は暖かく、私はしばらく歩いて「とよかつ」にコートを置き忘れていたことを思い出し、お店にとりに戻りました。
被告は、鮨屋に向かう途中、「ここには誰々と来た」と有名人や元総理大臣などの政治家の名前を出して私に話していました。
「鮨の喜一」というお店に到着し、一番奥のカウンター席に私が、その右隣りに被告が並んで座りました。被告が日本酒を注文し、とっくりとおちょこが2つ出てきて、被告と私とで飲みました。とっくりは常に被告側にあり、被告からおちょこにつがれた日本酒を私は飲みました。また、おつまみ程度の物で二人で2合目まで頼みました。被告は鮨屋が目的であると言っていたのに、なぜか一向にお鮨は出てきませんでした。
被告から、私に、「本当に良い評判を聞いているよ」と日本テレビのニューヨーク支店でインターンをした時の私の評判を口にされ、私は仕事の上で何らかの評価をされているのだと受け止めていました。
しかし、このお店でも具体的なビザの話は出ず、カウンター内にいる鮨屋の主人が「文春の記事を読みましたよ。すごいですね。」というような話を被告に話すと、被告は得意げに主人と話しをして、私はもっぱらその話の聞き手に回っていました。
2合目を飲み終わる前に、私は1度目のトイレに行きました。その際、お店のさらに奥にあるお座敷に置いてあった私のバッグを女将さんが持ってきて渡してくれました。トイレから出た後は、私はそのバッグを自分の足元に置き、席に座りました。その後、被告が日本酒の3合目を頼んだ記憶がありますが、突然私は頭がくらくらして何か体調がおかしいと思ったものの、きちんとしたお店で、近くに大将がいて、周囲の客も食事をしているところで周囲に迷惑をかけたくなく、とりあえずトイレに行こうと思い、2度目のトイレに行きました。トイレに入ると突然頭がくらっとして蓋をした便座にそのまま座り、頭を後方にもたせかけました。そこからの記憶は全くありません。次に記憶があるのは、ホテルの室内で目覚めたとき(第4)になります。
第3 ホテルにつれていかれるまでの経緯
1 私は、どのようにホテルに行ったのか記憶に全くないため、2017年の5月8日、真相を直接伺いに、そして検察審査会への証言をお願いするために、この時運転していたタクシー運転手に直接会いに行きました。
2 運転手は、次のように話しました。
「女性は黒いパンタロンに白い上着を着ていた。乗ってきて降ろすまでの間はお仕事の話をしていた。男性が「仕事でいくらもらってるの?もう少しギャラがいいのを紹介してあげてもいいよ」などと言っていた。二人ともお酒を飲んでいるから、車の中ではテンションが上がっていた。女性が「近くの駅で降りたい」と言ったので、「目黒駅が一番近いですよ」と言って向かった。信号の手前あたりで「そろそろつきますよ」というと、男性が「ホテルで話したいことがあるから、ホテルに行って」と言い、女性が「駅でおりたい」と言って、私が「ホテルでいいんですか」と聞くと、「うん、ホテルで」「何もしないから」などと男性が言っていた。女性は2,3回「降ろしてください」と言っていた。ホテルについて、なかなか下り(ママ)なかった。男性が抱きかかえるようにして車から降ろし、車を走らせた。走ったあとに「なんかおかしいな」と思ったら、ゲロを吐かれていることがわかった。内容物は鮨のようで、鮨がそのまま消化しないで出ていたので、始末はしやすかった。その日は稼ぎ時で、これからがいい時間帯だというときに吐かれて、会社に戻ったので、「あーやられちゃった」とすごく印象に残っていた。トラブった場合に備えて、客の姿かたちを常日頃覚えるようにしているので、二人のことも覚えていた。ホテルについてなかなか下りなかったので、どうしたのかなと思っていた。会話の内容から、二人はカップルではなく、仕事関係なんだろうという印象だった。その後、警察から連絡があり2回警察に行った。1回目は品川の交番。婦人警官一人含め三人の警察官がいた。二回目は高輪署。刑事に聴取された。警察に行ったのは二回だけ。」
3 この証言は、以前に捜査員の方からも聞いていましたが、実際に直接伺い、運転手さんの迷いない話し方を聞き、記憶が確かなのだと再確認することができました。またカップルではなくビジネスの関係だという印象があった事、「駅で降ろして下さい」と何度も言うなど家に帰りたがっていたということ、ホテルへ行くことに一度も同意していなかった事、そしてホテルに到着してからも自ら降りず、後に抱きかかえられて降ろされたことなど、私が被告とホテルへ行くはずがないと信じていたので、行ったのは、私の意思ではなく、意思を無視され連れてかれた(ママ)という経緯もしっかりと確認でき、安心しました。
第4 ホテルの客室内でのやりとり
1 その後、私の記憶があるのは、ホテルの客室内の出来事からになります。
私は、下腹部の痛みで目が覚めました。裂けるような痛みを下腹部に感じ、痛みからとにかく逃げたいとの思いでした。しかし目を覚ました瞬間は、自分がいる場所がどこかわからず、目の前の人がすぐに誰だか認識さえもできない状態でした。「痛い。痛い。」と何度も訴えましたがその行為はやむことなく、とにかく逃げようと、体を動かそうとしても、のし掛かられた状態で身動きが取れませんでした。
部屋の内装などから、その場所がホテルの室内らしいということがわかってきました。
私は、何とかしてここから逃げ出したい一心で、私に跨り覆いかぶさっている被告を押しのけようとしましたが、力ではかなわず、パニックになりました。私が「トイレに行きたい」と言うと、被告はようやく体を起こしました。その際に、被告の避妊具をつけていない性器が見えました。
冷蔵庫が収まっている棚の上に、電源が入って画面が光ってこちら向きにおいてあるノートパソコンが目に入りました。棚の前に椅子も置いてなく不自然だったので、直感的に「撮られている」と感じました。私は、ベッドのすぐ横にあるバスルームに駆け込んで鍵をかけました。
2 バスルーム内には、ヒゲそりなどの男性もののアメニティーがタオルの上に並べられていたことから、その場所が、被告の滞在しているホテル内であることも理解できました。
私は、バスルーム内にある鏡をみて自分が何も纏わず裸であることを改めて認識しました。自分の体を見ると、乳首から出血しており、腕などが赤くなっていたり、右腰辺りにヒリヒリするような痛みを感じ、ところどころ傷ついていることが確認できました。しかし、記憶がない私は、どうしてこんなことになったのか理解できず恐怖とパニックでした。そして自分がとても弱く汚い人間に感じました。裸のままでは逃げられないので、とにかく落ち着いて服を探し、着用し、一刻も早くこの部屋から逃げなければと思いました。
3 私がバスルームのドアを開けると、すぐ前に全裸の被告が立っており、そのまま両上腕部をつかまれ、再びベッドにひきずり倒されました。そして、強い力で押さえつけられました。
私は、とにかく再び性的暴行をされまいと足を閉じ体を捻じ曲げました。そして被告の顔が近づきキスをされかけた時、必死に顔をそむけたところ、私の顔はベッドに押しつけられた状態になり、私は息ができなくなり窒息しそうになりました。この時、被告がどのように押さえつけているかはわかりません。顔が布団に密着して顔を上げられなくて息が思うようにできなくて死んでしまうのではと思うくらい苦しい状態でした。
やっと息ができるようになって、私が「痛い、やめてください」と言いましたが、被告は「痛いの?」と言いながら無理やり膝をこじ開けようとして来ました。足を閉じて必死に抵抗した後に、被告は挿入はあきらめたようでした。
私は被告に背を向けて体を横向きにした状態で押さえつけられたままでした。窓の外がうっすらと明るくなっていて、朝方なのだなと感じました。裸のまま逃げることもできず、息も絶え絶えで力が抜けて抵抗する力もありませんでした。
4 それまで日本語でどれだけ「やめて」と言っても聞かれず、またそれまでずっと敬語で話して来た相手に急にどう強い言葉を投げかけられるのか分からず、私はとっさに英語で「What a fuck are you doing?」(何するつもりなの!)「Why a fuck do you do this to me」(何でこんなことするの)「 I thought we will be working together and now after what you did to me,how do you think we can work together」(一緒に働く予定の人間にこんなことをして、何のつもりなの)などと、少しでも強く聞こえるよう汚いワードを混ぜ罵倒しました。
これに対し、被告は「君のことが本当に好きになっちゃった」「早くワシントンに連れて行きたい。君は合格だよ」などと答えました。私からしたら父にあたるような年齢であろう男性に一方的に性行為をされ、好きになったと言われ、ショックを受けました。またどんなに威圧的に英語で話しても「連れて行きたい」など、私は彼にとってモノのような小さな存在なんだと感じ無力感に襲われました。
それでも私は「それなら、これから一緒に仕事をしようという人間になぜこんなことをするのか。避妊もしないでもし妊娠したらどうするのか。病気になったらどうするのか」と英語で訊くと、被告は「ごめんね」と一言謝りました。そして、「これから1時間か2時間後に空港に行かねばならない。そこへ行くまでに大きな薬局があるので、ピルを買ってあげる。一緒にシャワーを浴びて行こう」などと言ってきましたが、私はこれを断りました。日本では処方箋なしでピルが買えるわけがなく、また「大きな薬局」という言葉が嘘っぽく聞こえました。
5 私は、ベッドから抜け出し、部屋のあちこちに散乱していた服を拾いましたが、なかなか下着が見つかりませんでした。
ブラジャーは、窓側のテーブルか椅子の上に開いた状態で置かれていた被告のスーツケースの上にありました。しかし、パンツが見つからず、被告に聞くと、被告は「パンツくらいお土産にさせてよ」などと言ってきました。私は、急に全身の力が抜けて、床に座り込んでもう一つのベッドにもたれかかり、服を全くまとっていなかったので、体育すわりのような体勢でベッドに背中をつけるようにして体を隠すように体を小さくしました。窓側のベッドは、シーツを引っ張ったかもしれないがなかなか引っ張りだせないような、ベッドメイクされたままのきれいな状態でした。
私がパンツを返すよう被告に求めると、被告は、「今まで出来る女みたいだったのに、今は困った子どもみたいで可愛いね」などと言って、ようやくパンツを渡されました。
ブラウスは、玄関のドアノブにハンガーにつるされていました。そのブラウスはびしょ濡れの状態でした。私がドアノブの前でびしょ濡れのブラウスを手にすると、被告はTシャツを差し出しました。一刻も早く衣服を着たかったので、反射的に被告から差し出されたTシャツを受け取りました。
スラックスは濡れやにおいを感じませんでした。どこにあったかは、はっきり覚えていませんが、床の上ではなく、机の前にある椅子にあったような記憶です。
6 下着や服を身につけ、私は足早に客室を出ました。
部屋を出るときに、被告から「またね」のような言葉を掛けられました。私は被告の顔を見ることはできず、ただその普通に挨拶されたことに合わせるように会釈し部屋を飛び出ました。さっきまでもみ合いになっていた相手が余りに普通の態度だったし、ここまでどのように来たのか思い出せず、また、どのホテルにいるかもわからず、さらに私は混乱しました。私が罵声を発した後も、被告から子どもをなだめるようにされ、「困った子どもみたいにかわいい」などと言われ、会話をリードされるようなパワーバランスだったので、状況を理解できずにいました。ロビー一階に降りた時に、内装に見覚えがあり、このホテルが以前一度来たことのあるシェラトン都ホテルだとわかりました。
この時、私の意識ははっきりしており、ショックと混乱でぼーっとはしていましたが、吐き気もありませんでした。
私は、午前5時50分ころ、タクシーでホテルから原宿にある自宅に帰宅しました。ホテルの玄関にはタクシーがいなかったので、ホテルの敷地の外に出て、道でタクシーを拾って帰宅しました。
第5 4月4日以降の経緯
1 私は、原宿の自宅に戻ると、真っ先に服を脱いで、シャワーを浴びました。衣服を脱ぐとき、被告に借りたTシャツを一瞬見ました。そのTシャツは、きつね色のようなくすんだ黄色で、無地ではなく、何かのイベントの記念Tシャツのように見えました
そのTシャツをゴミ箱に捨て、残りの自分の衣服は洗濯機に入れました。シャワーを浴びた際には、あざや出血している部分があり、乳首はシャワーをあてることもできないほどヒリヒリと痛みました。衣服は洗濯しましたが、ブラジャーについては、脱いだ服を置いた棚の脇にすべり落ちていたため、洗濯されませんでした。
私は、何が起こったのか、どのようにしてホテルに行ったのか記憶がなく、頭の中は真っ白で混乱状態のままでした。朝早いけれど眠くもなく、自宅のベッドの上に体育座りで座っていました。シャワーは浴びましたが、何もせず、とにかく婦人科に行かなければとの思いで、病院を探していました。
午前7時か8時ころ私の携帯電話が鳴り、登録していない電話番号でしたが反射的に出たところ、被告からの電話でした。被告から「ここに黒いポーチがあるんだけど、忘れ物じゃない?」と聞かれたことから、荷物はすべて持っています、と答えると、「そう、じゃあ別の人のかもしれない。ビザのことで連絡しますからね、またね」などと何事もなかったかのように言われました。私も思わず「はい、分かりました。失礼致します。」と反射的に普通に受け答えをしました。この時の被告の口調は余りにビジネスライクであったので、私も反射的にビジネスライクに対応していました。
2 この日は土曜日で、午後から妹とカフェに行く約束をしていました。気づいたら妹から携帯に連絡がきて、病院がすでに開いている時間した。
妹は、お昼頃、私の自宅に到着しました。私は、とにかく望まない妊娠だけはしたくないという不安感でいっぱいになり、ピルをもらって飲まなければならない、という思いが先立っていました。
妹には被害のことを知られたくなかったので、近所の店で洋服を見にいってもらい、その間に、最寄の「イーク表参道」という産婦人科に行きました。予約がないので診察できないと断られましたが緊急であることを伝えて、モーニングアフターピルの処方だけは受けました(甲4)。
その病院の待合室は、表参道という土地柄のせいかとてもきれいで、自分がさらに汚れているように感じたことを覚えています。医者に事情を説明するべきだと思いながら診察室に入りましたが、無理を言ってピルをもらいに来たせいか、「いつ失敗されちゃったの?」と淡々と言い、パソコンの画面から顔も上げずにキーボードを打ち込む医者の姿は、取りつく島もありませんでした。すぐにピルを渡され診察室の外で飲むよう指示され、言われるがまま薬を受け取り外にでました。
その後、妹との約束どおり、妹が行きたがっていた新しいハワイアンカフェに連れて行きまし(ママ)。夜には、妹も交え、友人と代官山の西郷山公園にお花見に行く予定になっていました。全部予定通りにしないと被害のことを考えてしまい精神的に自分自身を維持できなくなる気持ちから、何事もなかったようにただ予定通り過ごしていました。
3 4月5日の日曜日には、数か月前から、友人のKさんがお付き合いしている男性を家族に紹介するので、場を和ませるために私に必ずいてほしいと言われ、約束していた大切な食事会に参加しました。こんなに大切な食事会の時に被害のことについて語れるわけもなく、何事もなかったように振舞いました。ただ、被害後に感じるようになった右膝の違和感や痛みのために、なかなかお店の階段を降りることができず、●●さんに勧められて、私は●●さんとその彼が住む家に泊めてもらいました。
いつもなら何でも話せる●●さんでも、食事会がうまく行き彼と嬉しそうにしている姿を見て、また彼がいる場で、彼女に打ち明けることができませんでした。家に泊めてもらっていても、私は一人で、被害のことを思い出しては、妊娠していたり感染症を移(ママ)されてはいないか、パソコンで撮影されていたのではないか、これからどう行動すべきかをぐるぐると思い悩んでいました。
なぜ「鮨の喜一」で2度目のトイレに行った際に意識を失ってしまったのか。そのことについて考えていた時、ふと、アメリカ留学中によく「飲み物から目を離すな」と言われ注意されたことを思い出しました。何かこれに関係するものかと思い、インターネットでアメリカのサイトを検索してみると、デートレイプドラッグの情報を発見しました。そこには、薬をいれられたときの症状として、薬の種類により2時間から8時間前後の記憶障害、吐き気、嘔吐などが書かれていました。私は、私が記憶を失っていた時間がほぼ一致していることに驚きました。これまでお酒で酔いつぶれ記憶を失うことはなく、むしろ介抱する役割の方が多かったのですが、そこまで飲んでいないのに記憶を失ったのは、この症状かもしれない、アメリカに住んでいる被告ならそれは簡単に手に入れることができるのだろう、と思いました。
この時は、嘔吐したことについては、ブラウスがぬれていたので、もしかしたら嘔吐したのかもしれないと感じている程度でした。髪から嘔吐の臭いはなく、ある程度の量を嘔吐すれば、気持ち悪さや口の中がすっぱい感じや、胸やのどがひりひりする感じがあるはずだが、私にはそのようなことが全く感じられませんでした。
そこで、幼馴染で親友の看護師をしている●●さん(以下Sさんと言います)に相談しようと思いLINEで「話したいことがあるんだけど、会えないかなあ?」とメッセージを送り、翌々日、Sさんと彼女が行く予定であった家具屋に一緒に行くことになりました(甲12)。
4 4月6日の月曜日の朝、目覚めると膝が痛くて起き上がるのもやっとでした。歩くことも困難だった為すぐにKさんの自宅近くの元谷整形外科を受診しました(甲13)。
ここでも、私は被害のことについては説明することができず、医者には「仕事でヘンな体勢になったので。昔、バスケをやっていたから古傷かもしれません」と説明したところ、「すごい衝撃を受けて、膝がズレている。手術は大変なことだし、完治まで長い時間がかかる」と言われ、以後、数か月間にわたってサポーターをつけて生活をしました。
医者からは、痛みに耐えられなくなったら、もう一度手術を考えた方がいい。手術をしたからといって治る保証はないし、完治に時間もかかる、もう少し様子をみましょう、などと言われました。
5 また、私は、他の検査や相談をしたいと思い、ネットで調べて、性暴力被害者を支援するNPO法人に電話をし、どこの病院で何の検査をすればいいのかを教えて欲しいと聞きましたが、直接話を聞いてからでないと情報提供はできないと言われ、すぐに情報を得ることはできませんでした。
6 一方で、私は、これはすべて悪い夢なのだと思いたい気持ちでいっぱいでした。そしてその前に受けた電話で被告は普通に話していたこともあり、このまま何もなかったことにしようと思いました。その電話で被告はVISAについて電話するといっていたので、同じ日の(4月6日)午前11時01分、私は、被告に、事件のことについて触れることなく、「VISAのことについてどの様な対応を検討していただいているのか案を教えていただけると幸いです」とのメールを送信しました(甲1号証の15)。今振り返ると何もなかったようにやり過ごせば全てが平常に戻るのではないかという気持ちでした。
第6 友人に事実を告白した以降について
1 平成27年4月7日に、私はSさんと会いました。
駅で待ち合わせをし、まずドラッグストアに寄ってSさんにサポーターを選んでもらい買いました。その後、家具店に行き、家具店のカフテリアで、被害について初めて他人に告白しました。被害の内容を話していると性被害にあったことを実感し涙が出てきました。この時、被害に遭ってから涙を流すのは初めてでした。
看護師であるSさんも、デートレイプドラッグを飲まされた可能性があるというものの、薬は一日で全て対外に出てしまうと言われて、証拠が残っていない状況のもと、警察に被害届を出すか否かについては、結論が出ませんでした。
2 翌 4月8日には、私はKさんともう1人の友人の家に行く約束をしていたため、出かけました。友人宅で昼食を食べた後、意を決して、二人にも事件のことについて話をしたところ、二人から「泣き寝入りはよくない」と言われました。さらに、友人には以前からセクハラの被害に遭い裁判をした経験があったので、できるだけ早いうちに被告から証言を取るように言われ、以後は、二人に文案を考えてもらいながら、被告とのメールのやりとりを続けることにしました。
3 4月9日に、原宿警察署に行き、その後、所轄の高輪署で捜査がすすめられることになりました。
4月16日頃、警察官とホテルの防犯カメラに写っていた映像を観ました。そこには、タクシーから引きずり出されて、意識のない状態で被告に連れていかれる私が映っていました。警察からは「これはあなたですよね」ということを確認する程度の見せられ方で、しかし、そこには確かに私が映っていましたが、力の入っていない手足が人形のようにしか見えず、知らない自分の姿に吐き気がおそってきました。記憶にないときの自分の姿を見るのはとにかく恐怖でした。そこに映っている自分は誰かに体をコントロールされている操り人形のようで、恐ろしく、また、そのことに気付いていない自分への憤りだったり気持ち悪さだったりを感じ、吐き気に襲われました。
映像を見るまでは、ホテルに行って被告との性交渉は自分の意思ではないけれど、記憶がないことから、それをどう証明すればいいかと考えていました。しかし、タクシーから引きずり降ろされて被告に連れていかれる意識のない自分の映像を見て、ホテルに行ったこと自体が自分の意思ではないことを確信し、警察も「これは事件だ」と言ってくれ自分の覚えていない空白の時間に何があったのかわかりました。
4 4月17日、警察からの勧めもあり、この頃、電話をかけた前回とは別のレイプクライシスセンターから性被害に詳しいと聞いたまつしま病院で、診察を受けました。恐怖で交通機関を使うことが困難になっていたのと様々な不安があり、友人のKさんに付き添ってもらいました。
まつしま病院の医者には、性被害に遭ったことを伝えました。妊娠検査については、事件から3週間しないと妊娠していても検査結果に表れないとの説明やアフターピルも飲んでいたことから多分大丈夫だろうという思いもあり、検査を受けませんでした。感染症も心配だったのですが、HIV検査も被害から1か月以上経たないと結果がでないと言われ、検査を受けませんでした。寝付けないことが続いていたことから、睡眠剤を出してもらいました(甲5)
5 4月23日、Kさんと一緒に、法テラスで無料の法律相談を受けました。弁護士からは、メールのやりとりは参考にはなるが、現状では直接的な言葉がないことや、被告とやりとりしたメールやホテルの防犯カメラ映像は、民事でも証拠になると言われました。
6 その後、事件からひと月経過しても生理が遅れていることから、妊娠しているのではないかという不安が日に日に大きくなっていました。
5月7日、病院へ行くことが怖くなっていた私は、Sさんに一緒に来てもらって、新百合ヶ丘総合病院でアルコールと妊娠検査を受けました。アルコールの検査は、自分がアルコールに強いことを証明できれば何か証拠につながるのではないかとの思いで行いました。妊娠はしていないという検査結果をSさんに同席してもらって聞き、心から安堵しました。その後、検査費用の領収書を警察に提出し、検査費用を受け取りました。
7 5月20日、事件のことをフラッシュバックして眠れない事が多かったので眠れるように薬が欲しかったことから、Kさん経由で紹介されたまちどりクリニックで受診しました。まちどりクリニックでは、「外傷後ストレス障害」との診断結果を受けました(甲6)。
なお、このころまで続いていた被告とのメールのやりとりは、全てKさんと相談した友人に見てもらい、メール文を作ってもらっていました。自分ではとても被告と言葉のやり取りをする事が辛かったからです。
8 被害直後から、平日は毎日出勤していたロイターの職場にも行けなくなりました。膝の調子を理由に休んでいましたが、何日も欠勤したため上司には事情を説明しました。
すぐに社内でつかえるカウンセリングなどの相談窓口を教えてもらいましたが、被告はTBSの支局長だったことから、TBSが所有している建物の中にあるロイターの東京本社で、安心してこのサービスを利用することもできませんでした。
それでもやっと日給を支給されるようになった仕事を続けなければ、経済的にも生活が厳しかったので、少しずつ出勤するようになりました。捜査員に言われたように、被害届を出したら報道の業界で働けなくなる(相手が地位のあるパワーがある人なので)という言葉は、常に、私や家族に危害を加えられるのではないか、父の仕事や妹の就職に影響があるのではないか、と恐怖でした。
さらに、被告が左遷され、TBSの東京本社、つまりロイターの真隣に移動になったと警察から聞いてからは、赤坂でばったり会ってしまうのではないかと同僚とランチに出ることもできなくなりました。また、私の勤務先を被告が知っていたため、いつロイターのオフィスに現れてもおかしくないという恐怖から、このころ、勤務中突然気を失うこともありました。被告に似た髭が生えた顔を見るとパニックアタックが起こってしまう事が多くあるため、人の多い駅や公共の交通機関を使うことも避けるようになりました。
その当時、私が住んでいたマンションの建物は原宿駅の直ぐ近くでわかりやすい場所でした。当然被告も知っている場所で、3日に会ったときの会話で私が住んでいる場所の外観などの話をしてしまったため、事件後その家に帰ることも怖くなりました。また一人では食事をとることなくぼーっと1日が過ぎることが多かったので、引っ越すまでの2か月間近く、友人の家でお世話になりました。原宿の家には2月に入居したばかりだったのですが、半年も経たないうちに引っ越した理由はこの事件があったからです。事件直後に帰ってきた場所でもあったので、この部屋で事件を思い出すことも多く、一刻も早く安全で安心できる場所へ引っ越したいと思いました。
パニックアタックやPTSDの症状を避けるため、被害に遭った場所と似た雰囲気の場所・人など、当時を思い出すようなものは極力避けているものの、パニックアタックやPTSDの症状は突然起こりました。その恐怖や症状を回避するために、私はトリガーの多い日本から離れたかったのと、被告と同じ赤坂、また日本のメディア界を避けるため、ロイターを辞めて海外でフリーランスの仕事を2015年末ごろからはじめました。
現在は事件を告発後、さまざまな脅しをオンライン上で受けたこともあり、海外を拠点に活動しています。
第7 現在も残るトラウマについて
被害から3年半以上経った今でも、パニックアタックやPTSDの症状で不眠や悪夢に襲われます。特に日本ではトリガーが多く、日本に帰国するたびに恐怖を覚えます。映画や街で被告に似た人を見かけると体が凍りついて動けなくなってしまったりします。
最近の体験では、10月に韓国で滞在したホテルが被害に遭った部屋と似ていてパニックアタックが起きました。9月にアメリカのアリゾナ州で友人と山登りをしていた時には突然フラッシュバックが起き、涙と過呼吸が止まらなくなったりもしました。海外でトリガーがないように思える場所でも突然この症状に襲われることがあります。
3年半以上経った今も受けた被害により苦しめられています。被害の記憶と今も共に生きています。
第8 終わりに
1 被告は、私が期待していた就職のあっせん話が期待できなくなり事件をねつ造したと主張していますが、そんなことは一切ありません。
もしそうであれば、被告が支局長を解かれたのは4月23日であり、報道されたのは24日、被告からの「会社も辞めた」とのメール(甲1の27)で知らされたのは28日ですが、それよりも前である4月9日に私が警察に本件被害を相談していたことと整合性がとれません。
また、被告は、メールで、5月13日までずっと就職の斡旋話をし続けていました。仮に私が被害後も斡旋話を期待していたならば、そのようなメールに好意的に対応するはずですが、私は就職の斡旋話には4月6日以降一切触れていません。
2 被害後、なぜ直ぐに被害を訴える事ができなかったのか、なぜホテルのフロントに言わなかったのか、今まで何度も何度も自分を責めました。
しかし、その当時は自分の記憶、意識のない中でホテルに連れていかれ、被害を受けている最中に意識を取り戻したので、そこまでの経緯がわからずとにかく混乱していました。そして信頼していた相手に突然このような行為をされて、急に相手を、強姦をした警察に届け出るべき犯罪者と認識できなかったのです。
準強姦の被害を受けたと認識するまでに2日かかりました。看護師の友人に話して、口頭で説明してみて、自分が受けた被害、そのことに対しての感情が溢れ出し、見ないようにしていた被害、その衝撃や心、体の傷に気づきました。それまではただひたすらに何も感じないように、なにも起こらなかったように振舞わなければ自分が保てなかったのだと思います。
私は、ジャーナリストの夢を実現させるために、アルバイトを掛け持ちしながら留学費用と生活費とを稼いで勉強に励み、必死に頑張ってきました。そのジャーナリストが、起きた事実をなかったことにして蓋をして進むことはできない、真相は明らかにしなければならない、これをなかったことにして蓋をして進めば、自分に嘘をつくことになり、ジャーナリストとして生きていこうと思った自分でいられなくなる、それは私にとって沈黙する事よりも苦しい選択だと思ったからこそ、警察に被害届を出し、現実と向き合うことにしました。
私は記憶のとおり述べています。
裁判所には、この裁判で真実を是非明らかにしていただきたいです。
以上