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強姦神話という神話

大阪大学・牟田和恵教授に反論する

 2017年10月28日付で大阪大学・牟田和恵教授が山口敬之氏を批判的に論じる文章を発表している。牟田教授といえば慰安婦と科研費、そして杉田水脈議員を提訴したことでも良く知られる。ネットのバッシングを扱った『映像'18 バッシング ~その発信源の背後に何が~』にもご出演されている。

 伊藤山口事件カレンダーで言えば、2017年は前半は週刊新潮初報を皮切りに検察審査会、司法記者クラブでの会見と伊藤詩織氏の動きが活発化し、後半は10月20日『Black Box』上梓から同月24日のFCCJ会見と急速に物事が進んだ年だ。『月刊Hanada』10/26刊に山口敬之氏の手記が掲載されたのを契機に、牟田教授がリテラを参照しつつ批判の文章を発表したものと見られる。

 牟田教授は、1)「被害に遭ったらすぐに告発するはず」、2)「嫌だったら死ぬほど抵抗するはず」「ノーと言わなければ合意」、3)「強姦罪」のハードルの高さを被害者叩きに使う、という3点において強姦神話のステレオタイプとして山口手記を一刀両断する。

氏は、もし本当にレイプだったのなら「なぜ最初のメールで言及しなかったのか」「なぜすぐに(デートレイプドラッグの)血液検査を受けなかったのか」、「なぜ事案から2年以上過ぎて」「レイプされた」と訴えたのかと、それが信憑性の無い証拠であるかのように書き並べ、「当時とは認識が違う」「後付けの被害者意識」と詩織さんの告発を偽りと決め付け貶めている。

しかし、詩織さんが自著『Black Box』でも書いているように、また、同じくレイプ被害に遭った女性の多くが語っているように、とくに知り合い間のレイプでは被害者は、それまで相手との間にあった信頼関係や尊敬の気持ちなどのために精神的ショックが大きく、自分の身に起こったことを理解するのに時間がかかる、被害を防げなかった自分を責める、「何事も無かった」かのように振舞おうとする等々の行動をとることはまったく珍しくなく、被害について口を開くのに時間がかかることも往々にしてある。

 事件の検証でいやというほど聞かされてきた正常化行動だ。では、本当に何事もなかった人と、そのように振る舞う人とをどのように区別するのか。それは偏にレイプ被害が有ったか無かったかに依るのであり、山口氏の主張は2-3時の合意の性交、伊藤氏の5時と真っ向から対立しているのである。真偽が確定する以前にどうして一方の当事者の言い分が真実であると言い切れるのか。ましてや牟田教授の言説は一審判決さえ出る前の段階である。

 迎合的反応については裁判でも入念に論議されており、伊藤氏と山口氏の間柄には継続的な上下関係は存在しない。加害者が役員、上司、恩師、教員、先輩社員、同僚であるなど、既に一定の社会生活、経済生活上の人間関係が成立していた相手方から性暴力による被害に遭った場合において、自分さえ我慢すれば従前の人間関係や利害関係が損なわれることはないといった動機付けが働き得る事案として合理的な説明ができるケースには本件は該当せず、二人の間には米国での見学案内やインターン先の紹介といった程度の単発的な人間関係しかなかった。巷間に言われるような「就職面接」ですらなく、ピアノバーで知り合った人脈を頼りに、コネ採用の下打ち合わせ程度の会合だった。山口氏側は「なんか奢ります」。

 法廷では今現在、伊藤詩織氏の矛盾が次々と明るみに出ている最中である。控訴被告弁護団は、薬物や致傷についてもはや真実性の証明を放棄して「疑った事実」において争うまでに後退を見せている。牟田教授は何を根拠に伊藤氏の言い分が真実で、山口氏の言い分が「強姦神話」だと言明できるのか。

要するに氏は、詩織さんの自由意志でセックスしたのだと言いたいのだが、常識的に考えて、泥酔し嘔吐に苦しみベッドに倒れこんだ女性が、吐き気が収まったとしても性行為を自ら望むような元気があるなど、あまりにリアリティがない話だとは考えないのか。
詩織さんの人格を貶めたいのだろう、氏は詩織さんがホテルの氏の部屋で所構わず何度も嘔吐したというのを強調して書いているが、氏がそのように詩織さんを描くほど、氏のストーリーがバカバカしく聞こえるのは皮肉だ。
たしかにそんな状態の詩織さんは「イヤだ」とも言わなかった、否、言えなかっただろう(詩織さんは、意識を失っており氏にのしかかれた状態で下腹部の痛みで目が覚め、その時点で逃げ出そうと抵抗したと書いている)。相手がイヤだと言わなかった、それが「合意」の証、というこれまたあまりに古臭い強姦神話は、もうきっぱりと願い下げにしたい。

 これも同様だ。「イヤだと言えなかった」のか「言わなかった」のか、第三者がどのように判定するのか。山口氏の主張は「イヤだと言わなかった」レベルではなく伊藤氏から誘ったという内容だ。酔いであれば、今では控訴審で医師の意見書が提出されて科学的検証が進んでおり、同意は可能であったとすでに証言済だ。つまり、山口氏の言い分どおり彼女の方から積極的に迫った可能性は否定できない。
 氏のストーリーがバカバカしいと言うならば、ドラッグや盗撮、下着を欲しがり、薬局でピルを買おうなどと手練れの変態の如く描き、致傷の証明は一切できなかったBlack Boxはどうか。何より「抱えられ、引きずられ」てもおらず、事実は共に歩いて居室に向かったのだ。控訴審では、「名誉毀損」と「プライバシー侵害」が山場を迎えている。両当事者間の主張の”質”の落差をご覧いただきたいものだ。どちらのストーリーにリアリティーがあるかは一目瞭然だ。

だが詩織さんは、捜査や司法システムの改正に加えて社会の意識を変えること、そして被害者を救済するシステムの整備を望んでいると10月24日の記者会見で述べている。山口氏の手記がせめて、その中に自ら暴露している、強姦・レイプに関する誤った認識の愚かさがより広く周知される役割を果たし、詩織さんの望む、社会の意識を変えることにつながってほしいと強く願う。

 被害の事実が未確定の段階で社会の意識変革もクソもない。牟田教授の論理は、「被害者」が確定していてこそのロジックであり、その点が壊れたら全てが瓦解する脆弱なものだ。牟田教授の言っていることは、(自身の信念に合致する”公益”ならば)一人の人間の尊厳を踏みにじってでも”公益”を優先すると言っているに等しい。人権を何と心得るか。そんな理屈がまかり通って良いはずはなかろう。

 女性の人権の拡大ならどんどんやって頂いて結構だ。だが、同性であれ異性であれ、誰かの人権を踏み台にした上に構築できる物など無く、また、あってはならない。双方の主張に真摯に耳を傾けるのではなく、一方的に片方の当事者に肩入れし、もう片方を指弾する・・・。

 伊藤氏の数々の疑惑を勘案することなく、冤罪の可能性に無頓着な牟田教授の如き思考は、換言すれば、虚偽であろうが何であろうが、これが契機となって結果的に国内外の性暴力被害救済の必要性への理解が進むのであれば、山口氏1人に重大な人格権侵害の不利益を甘受させる結果となってもやむをえないと言っているに等しい。これは過激派の思考である。

 大学教授ともあろうお方が、人を糾弾するのに入念な調査が必要という常識的なご認識はお持ちでないのか。実証を放棄したら学者とは言えまい。フェアネスに縁遠く、軽々しく思い込みで公開処刑に加担する。失礼ながら杉田議員を提訴された貴女は「名誉毀損」とは何なのかをご存知ないのではないか。

 個々の事例を丁寧に吟味せず、自己の信奉するイデオロギーに基づき偏見と先入観を以って『強姦神話』というステレオタイプに引き寄せる牟田教授こそ名誉毀損の促進者であり、「強姦神話という神話」の語り部である。