高尾先生のご投稿について
イーク表参道の高尾美穂医師が、判決日の1月25日付でTwitterにて次のようなツイートをなさった。
今回はこれについて私の思いを綴ることとするが、極めて個人的な私の価値観による見解になりますので、特にご賛同は求めません。
高尾先生が一連の裁判でどれほど重要な位置にあったかは、タスノートをお読み下さっている方々は先刻ご承知と思われるので繰り返さない。ただ先生が<coitus 2-3時 コンドーム破れた>と書かれたカルテの記載当事者医師であり、この事件は性行為の「時間帯」が「酩酊の程度」とともにクリティカルなポイントだったのだから、事件解明のキーマンだったのは間違いないことだ。もしも2-3時なら不同意性交は成立しないし、朝5時の強姦致傷の虚構性まで明確になる。
地裁、高裁ともに証言の要請を受けておられた先生がいずれも辞退され、イークは最終的に「カルテの記載が全てです」との回答を山口弁護団に対して寄せるに留まった。ご自身も「言い放ち」とか「言ってもない事をカルテに書かれた」とされた被害者なので、ぜひとも証言をと願ってはいたものの先生にもご事情がおありだったろう。
仮にイークが山口氏に肩入れするかのような態度を見せようものなら、今後どんな攻撃を受けるかはバカでない限り容易に予測できよう。意見書の提出ですら尻込みする医師が大多数であったなか、もし高尾先生が出廷すれば矢面に立たされるのは火を見るよりも明らかだ。攻撃を仕掛けてくるのは曲がりなにも”性被害者の救済”を謳う女性たちなのだから、他の診療科目にも増して婦人科にとっては大打撃になるだろう。苦しいお立場だから、辞退も無理はなかっただろう。
しかし、ならばなぜ今頃になってこのようなツイートを?もう判決は出ていて時すでに遅しなのである。
ツイートによって先生が体験された「真実」は、我々が知っている「真実」と同じであったと確認できたことは無意味ではなかった。発言を先生の良心の発露ととらえることもできるし、はたまた個人的に一矢報いたかったのかもしれない。そこは分からない。だが、このようなツイートは己の個人的な罪悪感をささやかに慰撫しているにすぎないように見える。それに「お天道様」とは何ごとか、他人事ではないか。事態転換の鍵を握っていたのはお天道様ではなく貴女だったのだ。ましてや判決後にキーマンが公共の場(Twitter)でこのような発言をすることは社会に混乱材料を投じることとなる。たとえ「不当判決」であろうと飽くまで社会は「判決」ベースで動いている。
イジメにあっている友人を助けられなかった親友が、「ゴメンな、助けたらボクもやられるから、分かってくれ」と被害者に懇願しながら友達を見捨てるやるせなさはホロコースト下のドイツで、シュタージの東ドイツで・・・日常的に見られた残酷な光景だ。しかもキーマンだった人物が処刑終了後になって「ほんとは事実を知ってるんだよ」と仄めかしたところで何になろうか。
悪魔的な人間は人の弱さを暴露してつけ込むのに長けているから、無実の人間の処刑に立ち会う辛さを突きつけ、究極の選択を迫るものだし、この事件は当初よりそういった性質を強く持っている。
似たような体験は私自身も裁判支援の活動を通じて体験している。理不尽な目に遭遇しても巻き込まれたくない目撃者は事なかれで証言をせず、被害者を見殺しにする。どっちに付くのか損得で判断する功利主義者もいるし、「あちらを敵にすると面倒なので」と臆面もなく口にするクズすらいた。沈黙ならまだマシで酷い場合には見たことと真逆のことを証言する異常者まで存在する。そして事情を知らない外部の頭の悪い者が真の被害者をさらに叩きにやってくる。まぁ、そんなものではあるが・・・。せめて私が強く言いたいのは、真実に蓋をして沈黙し、我が身可愛さで無実の人間を見殺しにした者は、その事実を一生抱えて生きてゆけ!ということだ。
この事件には「真実」を告発する者ほど地獄を見る顕著な構造がある。それでも裁判では圧倒的不利を承知で弁護を引き受けた弁護団や、実名で意見書を提出してくれた手塚医師や中内医師も存在したし、たとえネットの匿名であろうと誠実で善意のネット民は存在したのだ!
高尾先生は降り掛かった災難によって図らずも法廷で陳述するかそれとも卑怯者に甘んじるかの二者択一を迫られることとなったわけだが、出廷拒否の選択を責めるのはあまりに酷だと感じている。しかし今頃になって、しかも事件名も個人名も特定を避けて逃げ道を用意しながらこんな発言をなさるよりも、思いの丈は墓場まで持って行くべきではなかったか。良心の呵責に対しては将来的に別の形で人知れず贖罪活動を行ってゆくべきかと。
我々は極度に不利な土壌で戦ってきた。一介の非力なネット民なりに苦しくても闘い続けたのは何故か。究極には自分を騙すのが嫌だからだ。この後の人生を「圧力に負けた自分と向き合って生きる」のも嫌だからだ。人間はそう強くないので自分に負けることもあるだろう。それでもその時には圧力に屈した自分自身の弱さに真正面から独り静かに向き合って、忸怩たる思いを抱きながら二度と負けないように生きてゆきたい。そのほうがずっとマシだから。私の人間観はそのように私に告げる。