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給水タンクが無かった意味【再考】

「鮨の喜一」さんのトイレに「給水タンク」が存在しなかった事実には存外に大きな意味がありそうだ。この件は、伊藤擁護者の一部が人格批判の材料として下衆なゴシップを吹聴していたが、お陰さまで「給水タンク」の語だけは随分と人口に膾炙した。また、給水タンクの意味付けについても別の伊藤派との対話を通じて気づけたことなので感謝したい。

昨年9月に「喜一」を訪問して、大将に取材した直後のレポートがこちら。

ツイートで分かるとおり「給水タンクが無い」ことは、「全て真実」と謳うBBでまた一つ虚偽が発見されたというだけに留まり、筆者にとっては当初は小さな扱いだった。だが、どうやらそうでもないようだ。「とよかつ」メニューに(BBに登場する)叩きキューリが無かったこととは訳がちがう。

彼岸花さんの指摘どおり、伊藤詩織さんのレイプ被害疑惑において、「給水タンク」は①DRDを読者に印象づける重要な描写部分にあたることと、②記憶を失う以前の記憶すら曖昧だったという、2つの意味合いにおいて重要な位置を占める。さらには③裁判所が「給水タンク」を事実認定したという意味でも。

BBの記載はこうだ。

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突然、調子がおかしくなり、突然くらっとしたと。さほど飲んではいないのに体調が急変したと言っている。「そこからの記憶がない」とは即ち、「そこまでの記憶はある」という事だが、実はそこまでの記憶も怪しかったのである。何故か。単純に酔っ払ったからだ。

「薬物」それ自体が、”就職面接”で自ら鯨飲したのではないとする為の重要アイテムだ。ガブ飲みで酔っ払ってしまったとなれば終活セクハラはおろか、レイプ被害に対する世間の同情は激減したことだろう。薬物はまた証明されなかった盗撮疑惑とともに、被告の変態性を読者に印象付ける格好のアイテムだった。

「給水タンク」は民事一審の記録に複数回登場する。原告の「訴状」はもとより「判決文」にさえ、「二度目にトイレに行った際、蓋をした便器に腰かけ、給水タンクに頭をもたせかけた状態で発見され、原告は、この時以降の記憶がないと供述している。」(判決文 認定事実(3) エ)、「給水タンクに頭をもたせかけた状態で意識を失ったこと」(判決文 争点(2))として登場する。

なんと裁判所までが存在しないモノを認定してしまっている!!これは今や”世界的ジャーナリスト”と呼ばれる伊藤詩織さんが、無かったモノを事実として報道した事よりも大きい。

情けないことに裁判所までが振り回されている。「世界の100人」に登りつめるまでの壮大なストーリーは「給水タンク」という存在しないものの上に構築された薬物レイプ神話であり、砂上の楼閣だ。無かった給水タンクは全体の虚構の原点であり、象徴的アイテムだったのだ。