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武田砂鉄さんにUp-dateのススメ

<2017.11.15付の記事(前編)>


 それが何時だったのか記憶は定かでないが、私も武田砂鉄さんの論考を読んでいる。ご投稿からかなり時間が経った2019年頃だったかもしれない。数ある伊藤擁護論の中では珍しく堅実で、筆者のお人柄には嫌な感じは持たなかった。文章は実証的でありながら冷淡にならず熱いハートも感じられて全体として説得力がある。平たく言えば優れた書き手なのだ。

 ”百田尚樹現象”を懐疑的に論じた石戸諭氏がそうであったように、武田氏も『月刊 hanada』に毎号目を通されているらしく、対象の論考を読み込んでから批判する姿勢を好ましく感じる。是非を論じる前に”それが何であるか” を知ろうとする態度は立派・・・というより当然のことで、そうでなければ内在的な批判はできないし、好くも嫌うもまずは調べてから。それでも今日日、そんな当たり前を実行している者は残念ながらジャーナリストの中でも稀なのである。本件に係る週刊新潮の記事が悪例の見本であるように。

 上げて落とすわけではないが、惜しむらくはその「判断」だ。残念ながら判断が真逆で、加害者と被害者を取り違えている。これはどうしようもなく致命的だ。砂鉄氏の論考の後、たくさんの真実が判明しているが、未だ初期の武田説を信じている人のために氏の誤りを修正してゆくこととする。事後法の適用のようで気が咎めるのでUp-dateのススメと呼びたい。

 なぜ武田砂鉄氏のような有望な書き手がこのような錯誤に陥ってしまったのか。まずは武田氏が指摘した部分に沿って情報アップデートを箇条書で、次に総論という流れで、氏の論考を検証してみたい。

■武田砂鉄氏の指摘とアップデート内容

 防犯カメラとタクシー運転手
→ 防犯カメラ映像は、「引きずられ」ても「抱えられ」てもいなかった。二人は並んで歩いて居室へと向かった。今、これら表現の「名誉棄損」が追求されている最中だ。
→ 朝のスタスタ歩きはネットに流出した。武田氏はご覧になったか。
→ 新潮社の取材メモが発覚したのはつい先日のこと。もともと運転手証言はドアマンと不整合で証拠力は低かったが、ドライバー自身の初期の取材メモと陳述書の乖離が今現在開廷中の控訴審で議論されている。ドライバーは「何もしないから」という、事件の性質を決定づけるような証言は一度もしていない。

2 中村格元刑事部長による逮捕状執行停止説
→ 週刊新潮の取材メモが明らかになり、インターホン越しの取材では中村氏が官邸の介入を全否定している事が判明している。当時、日テレも独自取材に基づき「高輪署の捜査は女性の証言をなぞっているだけだった」と報道。一連の記事を巡って新潮社は現在「名誉棄損」訴訟の被告である。
→ この裁判は新潮社が「該当箇所が分からない」「限定的に指定してもらわないと」などと長らく牛歩で逃げていたが、裁判長の指示で昨年末にやっと動きだした所だ。

 レイプの被害者が必死に平静を装い、強姦された事実を自身の記憶から抹消しようと試みることを知らないのだろうか。
→ お疲れ様メールだけではない。ハワイアンカフェに「ベッドから起き上がるのもやっと」の人が深夜まで西郷山で花見。露出度の高いドレスをインスタにUP、髭の男性に寄り添い密着する姿・・・「正常化行動」で片づけるには度が過ぎている。何もかも「レイプ神話」で片づける危険は控訴審でも指摘されている。

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4 Tシャツ
→ 借りる必要は全くなかった。ポリ製ブラウスはびしょ濡れではなく着ようと思えば着れるレベルの生乾き、他にもキャミソール、カーディガン、ベルト付きコートがあり、Tシャツを借りる必要自体がない。一審求釈明でその旨問われた伊藤弁護団は「コートにはボタンがない」、「コートは素肌に着るものではない」などとトンチンカンな回答に終始。
→ ただし、BBの記述の見落としはご指摘のとおり。それでも読めばすぐに確認できることなので「嘘」ではなく単に迂闊。見落としと借りた事実のどちらのウェイトが高いかは言うまでもない。事件の真相に焦点を当てるのなら、鬼の首でもとったように針小棒大に言うことではないだろう。

5 「まだ仕事の話があるから、何もしないから」
→ タクシー運転手の取材・陳述書のどこにも発言の根拠がない。この一言の挿入で事件は全く異なる色調を帯びる。その意味で文言の捏造は悪質性が極めて高い。

6 「自称ジャーナリスト」
→ 事件当時はまだジャーナリストですらなかった。せざる終えません、恫喝には値しません、この度に及んで、自分をセイテイする、コマ回し、傘の下、拝見していただきありがとうございます・・・etc. 会見での的を射ない話法や「ほんとに」の連発など、武田氏は伊藤さんのその後の"ご活躍"をご覧になったのだろうか。
→ 今は”ジャーナリスト”の肩書の重さに本人が喘いでいないか心配したほうが良さそうだ。

7 ホテルのハウスキーパーの記録に「ホテルの部屋に吐しゃ物があったという記録はみつからなかった」
→ 
吐瀉物は山口氏が掃除したので痕跡がなくて当然。窓際はハンドタオルで拭きとり、浴室内は洗い流した。ゲロの付着したブラウスも氏が洗濯。だから生乾き。
→ 室内で吐いたことは双方が認めており争点になっていない。
→ 日本語がおぼつかず、部屋番号すら曖昧だったハウスキーパーの証言は信ぴょう性の乏しさから刑事告訴の時点から採用されていない。
→ ハウスキーパーの弁は伊藤氏が"A捜査員から聞いた”とされる2次情報であり、A氏が本当にそう言ったのかどうかも定かでない。山口弁護団はA氏の証人出廷を強く要求しているが、高裁が認めるかどうか今のところ未定。A捜査員が出廷すれば、あらゆる事が一気に明るみに出るだろう。
→ 「もう1つのベッドには血がついていた」についても、”この証言に基づいて事後、演繹的に”伊藤氏は出血の原因を探すこととなったと見られるが、ついぞ見つけることはできず、「乳首の出血」は右か左かそれとも両方かを特定することさえ出来なかった。暴行傷害の内容はすでに実質的に取り下げられており、「名誉毀損」が議論されている最中だ。

8 山口は伊藤とのメールのなかで、性交に及んだことを認めているから、詳述できない
→ 行為そのものは最初から認めている。後日(止む無く)公開された「密室」の詳細を参照されたし。内容から、とても積極的に公開できるような内容ではなかったことがお分かり頂けよう。公開を控え続けた山口氏の節度がお分かりにならないだろうか。陳述書の朗読動画も出ている。(9:33頃~)


9 ゲロを吐いた女なんて強姦しないよね、を理由にしている。山口は性行為に及んだことを否定できていない。
→ 繰り返しだが、行為そのものは最初から否定していない。山口氏の主張は、迫られたから応じたというもの。
→ この事件の核心は時刻。伊藤氏は5AM、山口氏は2-3AMをそれぞれ主張。時刻が後者で認定されればレイプは根底から瓦解するのであり、有力な証拠も存在する。

10 避妊具なしで性交したことも否定していない。
→ 性行為についても避妊具についても、最初から一貫して事実を述べており、事実でないことは否認している。

11 伊藤の切なる訴えが総じて虚偽だと訴えるならば、それだけの情報を並べ、ひとつずつ細かく虚偽であると指摘し、(彼らなりの)真実を提示するべきではないのか。
→ それは一審でも行っていたし、控訴審でも継続している。真実は裁判所にある。法廷の外で片方の言うことだけを鵜呑みにして人を叩く前に、プロのライターなら裁判所で記録を閲覧なさい。現にこの裁判の資料は複数のジャーナリストが閲覧に来ている。彼らが沈黙を守っているのは、控訴審の帰趨を慎重に見極めようとしているためだろう。不確かなことを断定的に述べてはならない。

12 もちろん、そんなものを提示できないからこそ茶化して嘲笑するという選択肢にすがっているわけだが
→ 裁判所に行きなさい。

13 なかばプライベート空間のFacebookのみで反論する人間を「ジャーナリスト」とは呼べない。
→ 裁判所に行きなさい。乳首・膝・腕・腰・に負った傷害、薬物に盗撮・・・「疑った事実」を世界に吹聴する人間も、Facebookのみで批判する人間も、どちらも「ジャーナリスト」とは呼べない。

■記述内容について

上述のとおり武田砂鉄氏が依って立つ前提事実が今ではことごとく崩れている。誤った「認定事実」を基に書かれた内容を指摘しても詮無いが・・・。

ホテルに連れ込む防犯カメラの映像やタクシー運転手の証言等をもとに請求された山口への逮捕状が、逮捕に踏み切る直前、かつて菅官房長官の秘書官だった警視庁・中村格刑事部長(当時)の判断で止められた。このことは、中村自身も認めている。

「連れ込む」という表現そのものが、すでにバイアスがかかっている。後日防犯カメラの映像では、当人は「抱えられ」ても「引きずられ」てもおらず、二人並んで歩いて居室に向かったことが判明している。逮捕状については、中村格氏の判断で止められたことはその通りでも、インターホン越しのインタビューで政権の介入を断固として全面的に否定している。なぜ逮捕状が執行停止されたのか。日テレも「捜査員は女性の供述をなぞっているだけだった」と報道した。飲食店の店主もそのように証言しており、最もオーソドックスな見立ては「高輪署の捜査ミス」であり、誤りが直前で是正された・・・である。なのに、なぜその選択肢が抜け落ちる?「権力がもみ消したに違いない」という先入観に他ならない。まるで村木さんのフロッピー改ざん時のような見立て。

被害者の伊藤詩織は、手記『Black Box』を刊行した。その手記を受けて、山口も手記を発表した。(略)自分に向けられる非道な声や視線に耐えながらも、事実を淡々と記した執念の1冊に対し、山口の手紙風手記、つまり感情(と権力)で事実を踏み潰そうとするその手記の方法は、後述するけれど、彼の支援者にも共通する暴力性である。

 武田砂鉄氏には、手記に含まれた数々の奇妙な箇所が目に入らなかったか。A捜査員の情報漏洩は気にならなかったか、副検事の叔父は、メールでの恫喝etc.は? 同一書籍の中での文体の変化はどうか。それよりも、もし山口氏の言い分の方が正しければ大変なことになるという考えすら頭に浮かばず「事実を淡々と記した執念の一冊」と思い込めたとは恐れ入る。

 この記事の日付2017.11.15といえば、検察審査会で不起訴相当(9月)が出され、BlackBox出版(10月)の直後だ。この時点で伊藤を「被害者」と断定できる根拠は存在しなかった。”権力が踏みつぶそうと”した根拠もない。いま、控訴審では武田氏が「感情的」と切り捨てた山口氏の主張に沿って実証的な検証が重ねられ、伊藤の虚偽が次々と明るみに出ている所だ。彼女が訴えた薬物も傷害も、「疑っただけ」で全世界に吹聴した事を伊藤弁護団も認めて、既に確定した段階だ。

 山口氏や支援者の何が暴力性なのか。曖昧な事実を基に、片方の言い分のみを断定的に伝えるジャーナリズムと、山口氏の支援者たちの客観的なファクトチェックを比較して、どちらが暴力的だろうか。答えは火を見るよりも明らかではないか。

少なくとも、伊藤がそうしたように、記者会見に臨むべきだ。自分をかばってくれる雑誌と、なかばプライベート空間のFacebookのみで反論する人間を「ジャーナリスト」とは呼べない。

 伊藤氏は会見を行ったFCCJで、自身もジャナリストであるAzhari会長より「会見には反対だった」との告白を受けている。理由は「まだ法廷で決着がついていないから」だった。伊藤が会見をやったので山口もやるべきだ!そうでなければジャーナリストとは言えない!と主張される武田砂鉄氏よりも、私はAzhari会長を支持する。それでも、相手が会見を行って風評拡散に腐心し、武田氏もその一人であるところの鵜呑みにした人が多発して二次被害が拡大したことに鑑みれば、対抗的に「会見」を行っても良かった。こうして、良識あるほうが邪道に引っ張られ、悪貨が良貨を駆逐する現実には忸怩たる思いではあるが。

 冒頭で、武田砂鉄氏は以下のとおり述べている。被害者と加害者は入れ替わっているが、ぜひ繰り返し「加害の事実」に言及して頂きたい。まさか人を見て言うことを変えるのではあるまいね。

加害者やその支援者は、この件を皆が忘れてくれるのを何より待望している。ならば、繰り返し言及するしかない。

■所感

 才能あり、真面目で誠実そうな武田砂鉄氏が、被害者と加害者を取り違えるという深刻な誤謬に陥ったのはなぜか。(桶川という)過去の遺恨に引きずられて人間的トラップに陥ったと思われる清水潔氏とは違って、武田砂鉄氏の場合は「正義の暴走」を疑う。

 権力の横暴に憤ることも、また、権力によって踏みつぶされそうな弱者を支えることもジャーナリズムの役目の一つだろう。権力は腐敗する。体制は懐疑するものだ。そのような警戒心なら健全なものと言える。ただし権力はすべからく腐敗しているわけではないし、体制が常に「悪」とは限らない。

 憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

 これは弱者だけが対象ではなく、すべての国民に当てはまる。ロープロファイルであろうがハイプロファイルであろうが誰と交流していようが、属人性によって不平等を被ることがあってはならない。もしもエスタブリッシュメントだから自動的に加害者と見做して良いなどということになれば、それもまた「社会的身分」による差別である。これを容認すれば、際限なく恣意的な条件付けを許すこととなり、まわりまわって弱者の首を絞めることになる。なぜなら基準そのものをご都合主義で運用することを意味するのだから。ドレフュス事件を想起されよ。女性差別も同様だ。女性だからという理由だけで裁判で有利になるのであれば逆差別を助長し、長い目で女性の首を絞めることとなる。武田砂鉄氏は、そのことを肝に銘じていただきたい。

 過ぎたるは及ばざるが如し。武田砂鉄氏にはブレーキが効いていない。正義の暴走にご注意なされよ。(後編に続く)