40歳からの独立 -人材派遣会社をクビになり、映像クリエイターとして独立して4年-No.1 会社を辞める前に準備したこと…の前に。

 こんにちは。山本 輔です。 

 前回、僕が独立についての経緯をまとめるようになった理由をしたためました。
 誰もそんなに読みはしないだろう…でも「40歳からの独立」というキーワード自体は、特に男性諸君には他人事ではないだろうから、少しは共感してくれる人もいるかもしれない、と、それくらいの気持ちで書き始めました。

 さすれば、案外と多くの人が興味を示してくれて、ありがたくも感想をいくつかいただきました。本当に、ありがとう。特に「独立のきっかけ」「リスク」「踏ん切りのつけ方」「準備について」「一番大変だったこと」など、皆さんが聞きたいと思っているポイントについても、様々な方からご意見をいただきました。これはもう、きちんとまとめていかなければいけないな、と思い、改めて筆をとっています。

 前回も最後にお話しした通り、今回のテーマは「会社を辞める前に準備したこと」です。

 独立も、もちろん唐突に辞めてしまう人以外は、何かしら準備をしてから始める方が多いはずです。特に、独立してからきちんと生計を立てている人は、必ず何がしか準備をし、助走をつけ、PDCAを回す準備をしてから独立してるはずだ。うん、そうに違いない。みなさんそう思っているはずです。だってこの世の中は「準備をきちんとする人が良い結果を導き出せるはず。行き当たりばったりの人は良い結果が出ないはず」と学校で教育を受けてきたのですから。

 なので、明確に言いましょう。
 僕は「会社と折り合いつかずに何の準備もなく飛び出しました」
 以上!

 …ああちょっとまってちょっと待って。ごめん。ちょっとだけ嘘。でもほとんど本当。すこーし、すこーし落ち着いて話を聞いてほしい。

 今回は、会社を辞める前に準備をしたこと…の前に、その周辺状況から説明をしておきたいな、と思っています。そうじゃないと、何を準備したかさえ説明ができないのです。

 僕は2014年、とある会社でサラリーマンをやっていました。2013年にその会社に入社したのですが…この会社に入社した理由というのがまた特殊で、僕は「望んで入った会社」ではありませんでした。

 いやもちろん、1年ほど勤めている間に愛社心は生まれてましたし、そこにいる方々も素晴らしい人たちでした。

 遡って2005年、僕はある会社に入社しました。これは、僕を知る方はほとんどご存知ですね。千代田区にあるデジタル系教育事業の会社です。
 僕はこの会社を、新卒の時からよく知っていました。1999年当時、映像の編集プロダクションに勤めていたのですが、当時の社長が「これからはデジタル系教育産業がもっともっと花盛りになっていくだろう。特にこのDH社は本当に素晴らしい」と語っていたのです。

 本当にたまたま、社長が廊下で立ち話をしていた声を耳にした僕は、その会社を知ることとなりました。その後、編集プロダクションの規模縮小に伴い、転職活動を開始しました。もちろん、転職先として考えたのはこの会社です。

 その後の話はまた今度詳細に話せればと思いますが、僕はこの会社に惚れ込み、6年の間に計3回の就職試験を受け、また一時期はこの会社をモデルに金沢市でパソコンスクールを起業したりと、いろんな形でこの会社のスタイルを元に仕事をしていました。

 そして、2005年。晴れて、この会社に入社しました。僕は水を得た魚のように面白く、楽しく仕事をさせてもらいました。特に、このベンチャー気質があまりにも自分にマッチしたようで、僕はいろんな企画を立て、営業から企画から、いろいろと飛び回って仕事をさせてもらいました。今でも、この時の人脈こそが独立後の根幹になっています。この話も、また今度ゆっくりと。(今度話す、という話があまりに多いな)

 そして、転機が来たのが2013年。
 僕は、自分の所属する事業部とともに、別の会社に売却されました。いわゆる転籍です。

 この顛末もいつの日にかしたためたい、自分の筆力が上がった時にはちゃんとエンタメ小説に仕上げたい、と思うほどにドラマチックだったのですが、それもまたそれ。ああ書きたいことが多すぎる。少なくともこの時、僕は「会社は何も守ってはくれない」「どれだけ会社を愛していても、関係ない」「正社員の雇用は安泰だ、なんて嘘っぱちだ」とも思いました。

 いやもちろん、転籍であるからには、無職になることじゃないじゃないか、ずっと正社員のまま継続していられるからいいじゃないか、と思う向きもあるかもしれませんが、だったらあなた「明日からお前の旦那様はこの人な。初めて会う人かもしれないけど、あとはよろしく」と言って結婚相手を勝手に入れ替えられて黙ってられますか?と、まあ、そんな感じなのですよ。

 当然ですが、僕は転籍には反対しました。思いっきり抵抗しました。ですが、できたことは一ヶ月、転籍時期をずらすこと、まで。僕の行動は「幼稚なやつ」「せっかく上場企業に転籍先を準備したのに、わがままをいうやつ」「大人の事情を汲み取らないやつ」「政治的な忖度を理解しないやつ」という評価をもらうまで、でした。正社員には転籍を拒否する権利がある、と法は述べますが、組織というやつは、自分たちの利益のため、それまでに関係各所と示し合わせた「内なる着地点」を全うするために、ありとあらゆる手法で乗り越えてきます。この時に、弁護士から市民相談から、ありとあらゆるツテで知識を得ましたが、まあ、基本的には「世の中はルールではなく『筋とか正義はさておいて、お互いの着地点をゆるゆると探しあう主義』で回っている」という通底も得ました。それはそれで、独立後、僕の武器になっていくのですが、まあそれもいつか書き(以下略)。今となって恨み言もありません。まあ「大人の社会はこうやってできている」と、40歳にして思ったものです。同時に「大人の事情に振り回されてたまるものか。僕の人生は僕が決める。生涯、砂場で遊ぶ5歳児として行動してやる。」と固く誓ったものです。それも(以下略)。やっぱり大人気ないね。

 ようやく話が元に戻ってきました。

 そのような経緯で2013年に転籍したある会社。地方では名高い上場企業です。ベンチャー企業をずっと経験してきた僕にとって、その経営スタイル、組織の形、全てが新鮮でした。
 そして、世の中における「企業」というものはこのようなスタイルで活動しているんだな、ということが、これまた40歳にしてわかりました。稟議とは。判子とは。忖度とは。朝礼とは。サラリーマンとしての気質とは。上司との接し方とは。

 そう、それを理解した上で。「世の中はこの形が大多数として出来上がっている」と理解した上で。

 先に言っておきます。この会社悪くない。何にも悪くない。だって彼らはその常識で生きているし、それで経営はうまくいっているし、雇用状況も悪くないし、そこに疑問を感じないで、うまくいっているのですから。だから、これはあくまで非難でも悪口でもない、そのベースからお話しさせてください。

 僕は無理でした。

 僕にサラリーマンは無理でした。それまでは小さなプロダクションやベンチャー企業だからこそまだなんとかやれていたものを、「地方上場企業」の常識にいきなり放り込まれて、それを理解してすぐに行動することは僕には無理でした。

山谷がけっぷち日記、という書籍に、このような一節があります。
「少年期から、自分がまともな大人の世界の中で生きていけるとはどうしても思えなかった。社会に出て仕事をもち、一人の女性と家庭をつくって子供をもうけるというような生活が、私にも訪れてくるだろうとは、心の深い部分ではどうしても信じられなかった。そういう生活がしたいかどうかというよりも前に、そういう生活が自分にはどうしても現実感をもっては感じられなかった。
 自分は人生に向いていないという深い確信があった。この確信を振り払うように、ある時期までは社会への(つまり会社への)過剰な適応努力を続けたこともあったわけだが、結局その努力も生理的に限界があったことがわかり、むしろホッとした気分になった。そうなのだ、、あんなところ(会社や社会)が私の生きる場所であるわけはないのだと、深く納得するところがあった。」 

 まさに僕が感じたのはこの通り。僕はこの会社で生きていくためには、過剰な適応努力を続けていかなければならない。それは、もう、無理だ。だめだ。と思ってしまったのです。

 一つ、エピソードを。
 入社した直後、僕は取締役に気に入られて、いわゆる出世コースに乗せてもらえそうになったことがあります。
 その時にいただいた言葉が
「山本君なら、7年で取締役になれるよ!」

…7年?

…7年。そう。この速度感。なのです。
この言葉は、彼らにとって最大の賛辞だったのは伝わっているのです。だって、毎年人事発表があり、毎年順調に出世するとして「係長〜課長〜次長〜部長〜執行役員〜取締役」というルートを経由しなければならないのです。

 そう、もう、この速度感で、僕はめまいがしたのです。
 僕は明日社長になりたいと思ったら、明日社長になるの!明後日クリエイターになりたいと思ったら、クリエイターになるの!という気質です。7年なんて、2555日なんて、待っていられないわけです。

 微に入り細に渡り、このような「違和感」を終始覚えていました。なんども言いますが、彼らが悪かったわけじゃないのです。あくまで、僕の持っていた常識との「差異」です。僕自身にはこの「気質」が合わないんだな、と思いました。同時に「会社を変えてやろう」という思いを持つほどにはまだ愛社心も育っていなかったですし、むしろ「僕が変えようとすること自体、彼らの常識、彼らの秩序を乱すだけに他ならない」と思ったからには、僕は僕の幸せを考えて去ることしかできなかったのです。自分で入社試験を受け、自分で選んだ会社ならまだしも、強制的に連れられて入社した場所で、折り合いをつけるなんていうこと自体、できなかったのです。

 明らかにそれを自覚したのが2013年12月。
 そこから、僕は何を行ったか。

 次回は、それをお話ししていきたいと思います。
 ああようやく独立準備の話に入ります。本当にごめんなさいごめんなさい。

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