『ぐるりのこと。』を観る

以下は、Twitterに投稿したものの転載

#ぐるりのこと 。 を観る。物語は1993年の冬から始まる。ギャルの細眉メイクが懐かしい。事務所で差し出されるクッキー缶も懐かしい。温水洋一の広げる新聞の一面には【株価続落】。そんな時代のお話である。「猫背の男は情が厚い」ホントか?(1/15)

(2/15)責める木村多江、それをのらりくらりとかわすリリーフランキーの夫婦間で交わされる会話が妙にリアルだ。特にセックスをする/しないの会話については、今この日本の数千万人が同時並行的に体験していそうな会話。

(3/15)例えば、【今日は”する”日】を巡っての

「決めることが多すぎてると思う」
「カナオが決めたこと守らないからでしょ」
とか

(4/15)「口紅とかさ…してよ。なんか」
「はぁ?なんで口紅しなきゃいけないの?」
「こういうこと言うのもなんなんだけどさ。家に帰ってきてだよ、なぁ。バナナ食いながら怒ってる女見てさ、いきなりおまえそりゃ、どんな絶倫でも勃起しないよ」
とか

夫婦であることとセックスの問題は難しい。

(5/15)家族集まっての中華料理、翔子の兄との差を押し付けられた帰りの夜道。お腹の子の胎動を感じリリーフランキーのシャツの背中を掴む木村多江。二人の後ろ姿が愛おしい。
このシーンまでは、、、

(6/15)石膏のように固まる翔子の視線の先に、位牌。散らばる線香の灰と2つの飴玉。ビニール紐でまとめられ雨に濡れる育児全書の束。

先の、寺田農とカナオの会話「あんた子どもは?」「いえ。吉住さんは?」という切り返しの早さ
寺島進との翔子の台詞「気分転換」

その意味を知る。

(7/15)ホームパーティーでの「やめて!やめて!駄目、家蜘蛛は良いものなんだから殺さないで」という翔子の絶叫。映画の中では詳しく言わなかったけど、家蜘蛛は亡くなった者の生まれ変わりって説は全国共通なのだろうか。又吉直樹の『人間』やエッセイにも沖縄でのエピソードとして出てきたな。あれは蜘蛛じゃなかったけど。

(8/15)研ぎかけのままシンクに散らばる濡れた米。徐々に疲弊していく翔子が料理が出来なくなっていく様で表現されるところが切ない。仕事とはいえ『愛の子供たち』を売らなきゃならないのは本当にシンドイだろうと想像する。吸玉刺絡で他人を癒す倍賞美津子演じる母は言葉の力で翔子の疲弊を加速させる。

(9/15)法廷画家としての仕事を通して、様々な人間の側面を見つめていくカナオ。その最中、妻が壊れることでカナオがギリギリと振り絞った弓のような優しさをみせる。
結婚当初、「おもてなしの気持ちを持ってくれって言ってるんだ」と言ったカナオとはもう違う。

(10/15)台風の夜、カナオが蜘蛛を殺すことで現実・象徴共に一度全てが崩壊し、そこからまた二人の再生が始まる。
それは尼寺でのお茶、天井画の依頼に始まる。

(11/15)夫婦二人、”描く”という行為を介しながら人間性を回復していく。
炊き立てのご飯の香りを嗅ぐ翔子、二人で楽しそうに摂る食事。
綺麗になった仏壇に、髪を切った翔子。
翔子の寝顔をスケッチするカナオ。
嘘と嘘がぶつかり合って娘と母の和解。

(12/15)地方裁判所に入っていくシーンの寺田農みたいな仏頂面のオッさんっているよね。
寺島進みたいな雑なオッさんも親戚に一人はいるよね、っていう既視感。
そう。既視感だらけだ。この映画は。

(13/15)幼女誘拐殺人事件の被告人はモロに宮崎勤。向井千秋、地下鉄サリン事件、阪神大震災。宅間守に、ムンクのベルトバックルも然り。あれからの時代を生きてきた全ての大人たちには、必ず何処かしら突き刺さるシーンがあると思う。ノスタルジー。

(14/15)セットや髪型/衣装のせいか、本当にあの時代の画質の粗いビデオを見ているような気分だ。これは2008年の映画であり、(正確には)DVDなのだけれど。

(15/15)キャッチフレーズの【めんどうくさいけど、いとおしい。色々あるけど一緒にいたい。】そのままに進んでいく。
柄本明の「大事に出来るものがある時は、大事にしとけよ」という台詞が全編を通して鳴り響く。

#エッセイ #映画 #ぐるりのこと

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