渡辺一夫「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」(1948年)
例の件についてTwitterに投稿しました。いろいろ考えた末、ハッシュタグのみの投稿と、志位和夫氏の投稿のリツイートのみにしましたが。
その行動を起こすにあたっては、仏文学者・渡辺一夫氏(1901〜1975)の以下の言葉を胸に刻んだ次第です。
(…)私は文芸や学問に携わる人々が、常に政治問題を論じ、その作品や研究にもそれが常に取扱われねばならぬというのではありません。政治と直接関係のない問題は無数にあるのです。いわんや、政治家にならねば時流に便乗できないと申しているのでもないのです。しかし、いくら幽玄な芸術・高尚な学理に耽っても、現代に生きる自分の倫理を忘却してはならぬとは言いたいのです。そして、ある時には、幽玄な芸術や高尚な学理を一時離れても投票せねばならぬこともあるし、幽玄な芸術や高尚な学理の保持そのものが、投票の結果いかんによって可能にもなり不可能にもなることを強調したいのであります。無智や無関心の故に一人の危険的人物の登場を許したら、その人物の冒す一切の暴力を予め許すものと申さねばなりません。これは現代の社会機構では必須でありながら、また判り切ったことでありますが、なかなか判り切れないことであります。想像力が行き届かないのです。現代の危機において、この事実を判り切りこれに対応しようとする人々が一人でも多く出てこない限り、暗闇しか我々を待っていません。即ち、幽玄な文芸も高尚な学問もない時代の再到来がそれであります。
「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」(1948年)
——『渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇』(1993年、岩波文庫)、p.135。太字は原文では傍点。
※同文は、『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』(2019年、三田産業)にも収録されている(p.52-53)。
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