ひとつの「時代」の終わり

「時代」が何によって定義されるのかは様々だが、「社会的に大きな事件」をもって「時代」だとする向きもあるだろう。
その意味では今日、ひとつの「時代」が終わった。言うまでもなく、囚人・松本智津夫への刑執行である(なにか、直接的な表現を用いたくない気持ちが働いて、単に「刑」とした)。

サリン事件当時の私は小学生で、「恐ろしいことが起こった」くらいの感覚だったと記憶している。当時は東京の西部に住んでいたこともあり、身近に直接事件に接した人もいなかった。
だがその後、大学を出て最初に勤めた職場はかつてサリンが撒かれた路線沿いにあった。そのため、私が在職当時一緒に仕事をしていた方の奥さん(奥さんも同じ職場)が、「その日はたまたま違う電車に乗ったために被害に遭わなかったが、いつもと同じ電車のいつもと同じ車両位置に乗っていたら被害に遭っていた」という状況だった、ということを聞いて、急に事件が身近に迫ってくるように思われた。
事件の間近にいた人の話を直接聞いて初めてそれを身近に感じるなど、我が身ながらなんとも想像力に欠けた浅はかな人間だとは思うが、それが正直なところだった。

以前、ヒトラーとその時代について、以下のような短い投稿をした。

今日話題になっている事件も、我々に深い深い傷跡とともに「洗脳」や「狂気の暴走」、「高い学力・理性を持つはずの者を凶行に走らせる論法や技法」等々の恐ろしさについて、血なまぐさい教訓を残した。
歴史を繰り返さないためにも、弛むことなく検証・分析とそれに基づく注意喚起をしていく必要があるだろう。その点、インターネット(SNS)には功罪あるかもしれないが、少なくとも「おかしいと思ったことははっきりと『おかしい』と発信できる」という点において、注意喚起の一助になり得ると信じたい。

もう、二度と惑わされてはいけない。

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