記憶の縄釣瓶petit: 残りものでごはん。

子どものころ、母は一家6人(祖父、父、兄2人と僕)の食事を毎晩作っていた。やがて中学のころになると、祖父は寝たきりになり、父も不在のことが多く、兄たちも家にいる機会が少なくなり、彼女は僕ひとりのために食事の支度をすることが多くなっていた。
そんなころになると大抵、僕が食事を終えてテレビを見ている時に、あるいはその翌日の昼も、当時まだ珍しかったカウンターキッチンの向こう側に座り、残りものでごはんを済ませていた。「それで足りるの?」と切なさとともに母を見ていた記憶が微かに残っている。
いま僕は家人の弁当を作り、その残りものでごはんを済ませることが多い。ところがこの「残りものでごはん」が美味いのだ。

ご飯は一度に炊く量が少なすぎると美味しくない。出来れば釜や鍋で炊きたいが、それも手間がかかるので炊飯器を使っている。しかしそのまま保温しない。残ったご飯は保温スイッチを切って常温保存し、次に食べるときに水を少し入れ、早炊きモードでもう一度炊く(温める)。
少し前に、子どものころ母が残りご飯を蒸し器に入れて温め直していたのを思い出して同じ理屈じゃないかと試してみた。これが結構いい。そのまま保温モードにしておいたご飯と比べるとまったくの別物、炊き立てのほかほか感と米の風味が残っている(甦っている)。
米は白米、胚芽米、発芽玄米、十六穀米、さらに押し麦、もち麦などをその時々でブレンドするが、いずれも美味い(インディカ系バスマティライスやバレンシア米はその限りではない)。ただ夏は常温でなく冷蔵保存した方がいいが。

料理についてはいろんなメディアを通じて情報を得てきた。昭和の中ごろ「料理研究家」という職業が登場した。今もテレビや雑誌、ネット上では、多くの若い料理研究家が頑張って勉強し、さまざまな技術や知識を紹介している。だが僕はこの職業の人をあまり信用しなかった。若くして仕入れた知識は、長い時間のなかで身についた技術や知見には(すまないが)遠く及ばないと、この歳になるとあらためて感じる。
昭和の終わりごろになると「プロの料理人」たちがメディアに登場するようになる(もちろん村上さん、初代陳さんなど昭和中期からテレビに出る「プロ」はいたが)。僕はプロが紹介する技術に惹かれ、そこからこそ料理の真髄が学べると感じていた。
ところがいまや料理研究家もプロの料理人も2代目、3代目が活躍し、さらに「愛好家」や「プロ裸足の芸能人」も入り乱れ、さらには「プロの主婦」まで登場して料理メディアは百花繚乱である。

自分でお金を払って外食するようになると、オープンキッチンの店で、料理人の仕事を見ながら注文したものが出てくるのを待つのが大好きだった。和食店でも洋食店でも、もちろんラーメン店でも、カウンター席とテーブルがある店なら、迷わずカウンター席を選択した。本格中華料理店は油が飛ぶのでオープンキッチンにしている店は少なかったが、神保町の裏通りで見つけた源来軒は、厨房とカウンターの間を厚いガラスで区切った店で、よく通った。原宿のはずれに巨大なオープンキッチンを取り囲むように客席が配置されたイタリアンレストランがオープンしたのは、80年代後半だったろうか。
プロの料理人の仕事や仕種がいかにエキサイティングなパフォーマンスであり、見世物になるかを、90年代フジテレビの番組は証明した。だが家では強火の中華鍋で具材を煽るのにはやはり無理があった。プロがお店の調理場で段取り良く素早く仕上げる調理法を採用しているのは、家庭で作るのと違う理由があることに気づいたのは、比較的最近のことだ。

コロナ禍でほとんど外食しなくなり、スーパーで買い物しさらにAmazonで食材や調味料を調達し、その時々で食べたいものを作るようになった。無理だと思っていた天ぷらまで上手になってきた。最早無理なのは握り寿司くらいか(麺打ちやパン作りなど手を広げすぎるとキリのないものには挑戦しないが)。いまや上野や新大久保まで行かなくても、世界のあらゆる食材・調味料がネットで簡単に手に入るようになったし、検索すればかなり専門的な情報にアクセスもできる。

最近では同居人のための弁当作りが、台所に立つ主な時間を占めている。なにかものを作るにあたっては(おそらくそれは音楽でも演技でも執筆でも美術でも)、それを受け止める人間の存在を想像することが大きなモチベーションになる。弁当作りも同様だ。相手が弁当を開けたとき喜び、楽しみ、美味しく食べてくれることを一番に目指す。あえて言えば感動に震えてもらいたいとも思う。

そして弁当の残りものでひとり飯。しかしこれが実に美味い。

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